2013/03/18

三重大学産科婦人科学教室からの東紀州地区への派遣について

  東紀州地区は、三重県の南部で尾鷲市と熊野市を中心とした地域であり、人口は約8万と過疎です。平成21年の出生数は465例であり、御浜町にある紀南病院、熊野市にある大石産婦人科、および尾鷲総合病院で行われております。その他、隣の新宮市にある新宮市立医療センターと新宮市の2つの開業医も、三重県東紀州地域の周産期医療に協力していただいております。また、出産以外の産婦人科医療は、紀南病院の産婦人科を中心として行われています。三重大学産科婦人科学教室は、1977年(昭和52年)から、尾鷲総合病院に産婦人科医(藤田弘史医師)を派遣したのをきっかけに、現在まで延べ76名をこの東紀州地区に派遣してきました。

1.東紀州出向は「両刃の剣」
  尾鷲総合病院には1977年(昭和52年)から2005年(平成17年)まで28年間に延べ25名、紀南病院には1981年(昭和56年)から現在まで31年間に延べ36名、新宮市立医療センターには1984年(平成59年)から1997年(平成9年)まで13年間に延べ15名を派遣いたしました。
  ここで注目したいことは、医師が赴任した時期の卒後年数です。ほぼ全員、卒後5年目から10年目に出向しています。他の科もそうですが、この時期は、大体の診療をこなす力がつきます。帝王切開術や単純子宮全摘術も術者として、ほぼ問題なくこなせます。したがって、外来→手術→外来、または、外来→分娩→外来という診療を主治医として担当し、概ね安全に行うことができるようになるのです。さらに、この3病院においては、産婦人科部長として、助産師、看護師をはじめ診療スタッフとの協力体制や、院長はじめ診療施設の管理者とうまく協調していくことが求められ、これらは医師として極めて重要なトレーニングとなります。一方、卒後5年目から10年目は、リスクが高い手術や妊娠・分娩管理でも、「できるだろう」とおこなってしまう傾向にあることも事実です。そのほとんどが、うまくいくものですから、どんどんエスカレートしていき、その内、失敗を経験します。そして、以後、慎重に対応し、先輩や専門家に相談するなど、「念には念を入れる」診療となります。その結果、失敗も経験しながら「引き出しの多い医師」となり、成熟していくのが一般的だと思います。したがって、卒後5-10年目は、産婦人科医としての成長過程の中でも極めて大切な時期であります。
  一方この時期に、患者さんの診療結果が思わしくない場合や、医療訴訟に巻き込まれたりすると、産婦人科診療がいやになって、退職、辞職などを考える傾向にあります。2000年以降に、三重大学産婦人科医局から28人が退局(開業退局は含みません)、辞職されていますが、勤務先が東紀州3病院であった例は7例(25%)でした。すべてでは無いでしょうが、診療上の何らかのトラブル・トラウマが原因であった可能性はあると思います。トップとして、任される東紀州の出向は、医師生命にとっても、医局の人事にとっても、いわゆる「両刃の剣」なのです。

2.新入医局員のリクルートにはマイナス
三重大学のように地域に密着した大学は、東紀州地区のような過疎地に関連病院を有しており、地方自治体から医師派遣を要請されることが常です。隣の岐阜県は、飛騨高山地方、京都府は丹波・丹後地方などがそうで、岐阜大学、京都府立大学の産婦人科医局も同様な問題を抱えています。私がいました宮崎大学では、県の多くの地域が僻地地区であり、県や市町村の要請に答えて、医局員を派遣していました。ただ、僻地病院での勤務はやはり医師、特に若い医師には人気がなく、誰を派遣するかが常に問題でした。家庭を持った女性医師は、概ねこの派遣から免れ得るため、男性医師と独身女性医師が、いわゆる「徴兵的」に派遣されるという傾向にありました。三重大学産科婦人科教室でも、実情は同様なものだと感じ取れます。そして、これが新入医局員のリクルートには、ネガティブ要因であり、大学医局への入局を避け、いわゆる「人事命令を受けない聖域」病院において、研修や就職を希望する若者が増えてきています。すなわち、「医局離れ」です。新入医局員リクルートにとっては、「危難病院」なのです。

3.医局会議を経て
  この「紀南病院問題」を解決するために、昨年秋の医局会で大学医局員に意見を聞いてみました。その結果、①三重大学からの出向は止め、他大学などに依頼する、②出向を順番に義務化する、③東京など都会の医師で、「のんびり」と診療したい方をリクルートする、など様々な意見がでました。私個人としては、平成17年に、尾鷲総合病院と紀南病院の統合として、三重大学主導で紀南病院に3人の医師を集めたという経緯もあり、三重大学が引き続き責任を持って医師を派遣し続けることが責務ではないかと思っております。ただ、派遣方法が従来の、卒後5-10年の比較的若い医師の、いわゆる「度胸試し」ではなく、より魅力的な、若者にも行きたいと思えるような紀南病院産婦人科を目指すべきだと考えます。
  それでは、どのように魅力的な僻地病院を作っていったらいいのでしょうか?第一に、部長は、産婦人科の裏も表も知り尽くしたような経験豊かな医師が望ましいと思います。それが、東紀州出身の方であれば最高です。私の出身は、兵庫県の日本海側の豊岡市という典型的な僻地ですが、古くからの知人が多い生まれ育った地域で、故郷の医療に貢献することも、自分の人生の選択肢であると思っています。第二に必要なのは、僻地病院の空間的疎外感を無くすことであります。それには、医師間の交流などを盛んにする、具体的には、大学などから医師が頻繁に当直、外来および手術応援などに出かけるなどです。もちろん現在でも医局員は、このことに努力してくれていますが、さらなる医師の移動が必要でしょう。さらに、紀南病院の勤務医を3人にして、研修日を多く取ることができるようにしたいと思います。定期的に大学、関連病院、学会などに研修に行くことができるようになれば、空間的疎外感が軽減するのではないでしょうか?第三に、紀南でしか学べないことがあるのではないでしょうか?例えば、地域に密着した検診医療も東紀州ならではと思います。成人白血病ウイルス(HTLV)の感染頻度が高いことが予想されますし、風土病など多くのテーマがあると思います。また、他の病院とは違った、内科や外科との協同診療ができるのではないでしょうか?私も、大阪の田舎である貝塚市立病院勤務の時には、鼠径ヘルニア、虫垂切除術、および腸吻合術などを、外科医の指導のもとに行わせていただきました。

4.千田時弘先生のこと
  千田時弘先生は、三重県菰野町の出身で、平成19年に自治医科大学を卒業され、一昨年、わが同門会に入会していただきました。自治医科大学は、卒後9年間の僻地勤務が義務づけられています。千田先生は、三重県に帰ってこられてからも、産婦人科になることを希望され、平成23年4月から三重県立総合医療センターで勤務され活躍されています。この先生に、県から平成25年4月より紀南病院内科専任の勤務命令が来たのです。2年間の産婦人科医としてのトレーニングが中断してしまい、産婦人科専門医取得も3年遅れることを心配され、昨年秋に相談に来られました。以後、同門会や三重県産婦人科医会の先生方に協力していただき、県にお願いを続けました。三重県健康福祉部と三重県地域医療研修センター長の奥野正孝先生始め自治医大OBの先生方のご理解を得、正式に紀南病院産婦人科専任医としての赴任が決定いたしました。三重県で働く産婦人科医が少ないことが大きな要因であったと思いますが、このような寛大な決定をしていただいた県と自治医大関係者に感謝申し上げるとともに、今後親密なる協力体制をとって行政協力を行って行きたいと思います。また、東紀州の産婦人科医療に携わられる千田先生には、ぜひ、前述したような、魅力的な紀南病院産婦人科を作っていっていただきたいとお願いします。