2016/02/26

新しい専門医制度と三重大学産婦人科専門研修プログラムの優位性


2017年(平成29年)から、日本専門医機構が管理する「新専門医制度」が発足します。われわれも、三重大学産婦人科教室が基幹施設となる「三重大学産婦人科専門研修プログラム」を作成しました。今回は、この新しい専門医制度によって、産婦人科医師の卒後教育がどのように変化し、それに対して私たちはどのような対策をとっていくべきかについて、お話しいたします。三重大学病院を基幹施設とし17の連携病院からなる、三重大学産婦人科専門研修プログラムの優位性についても述べたいと思います。

 
1.これまでの産婦人科専門医制度との違い

 現在行われている産婦人科専門医制度は、日本産科婦人科学会が認定しているものです。

3年間の履修を終えたのち、7月にある専門医試験を受験し、合格することで取得できます。(図)これ自体は、取得するメリットも少ないと考えられており、目標として「あいまいな」ものとなっていますが、その後のサブスペシャルティーの取得は、若い産婦人科医師にとって魅力的です。周産期専門医(母体・胎児)、産婦人科腫瘍専門医、産婦人科内視鏡専門医、生殖医療専門医は、専門医養成施設の施設認定にも必須であるため、病院職員がサブスペシャルティーを所有していることは施設の診療内容の充実につながり、重要です。
図1.これまでの専門医研修制度と、新専門医研修制度(三重大学産婦人科研修プログラムの例)
 
 それでは、新専門医と現行の専門医制度とどのように違うのでしょうか?大きく違うところは、以下の2つでしょう。
(1)専門医研修3年間のうちに同一施設には最長2年間しか所属できない
基幹病院に最長2年間しか所属できないことがどれだけインパクトがあるのでしょうか?一番困る施設は、2004年の新研修医制度において人気のあった、たとえば亀田総合病院、三井記念病院、聖隷浜松病院などのいわゆる「マグネット病院」でしょう。初期研修としては、救急医療やコモンディジーズが多く経験できる施設に人気がありました。これらの施設は、初期研修で集めた医師の中を、あと3年間、後期研修として人員が確保できましたし、その中で優秀なものはスタッフの道も開けるという競争的な制度が功を奏し、発展してきました。一方、大学病院は、救急医療やコモンディジーズが十分に経験できず、医学部卒業生に敬遠されています。しかし、今回の新専門医制度は、基幹病院でも最長2年間しか在籍できず、「マグネット病院」にとっては、良い「連携病院」探しがキーとなっています。おそらく、これらの施設は、関連の大学病院と連携することが多いものと予想します。一方、大学医局としては、これまで通りの研修システムでよく、より専門性を求めた今回の改定は大学医局に有利に働くと考えています。
 
(2)専門医取得上、求められる経験症例数がより高度で広くなってきた
新産婦人科専門医研修プログラムでは、表1のように、①生殖・内分泌領域、②婦人科腫瘍領域、③周産期領域、④女性のヘルスケア領域の4領域から、幅広く、かつ多くの症例を経験しなければなりません。したがって、がんセンターや周産期センターなどで、その専門外の症例を経験することは容易でなく、他の充実した施設と連携する必要があります。また、地方では症例数の確保が難しいことが予想され、2004年からの新研修医制度の開始時と同様に、都市部と地方との医師の偏在が起こることは必発でしょう。地方におけるプログラムの一つである三重大学は、都市部の連携施設と組むことによって、この点を克服したと考えています。
 
以上2点を踏まえて、今回、三重大学を基幹施設としたプログラムを作成しました。今後は研修プログラムの優劣が、全国的に比較されるようになると考えられ、プログラムに入る初期研修医はより地域や出身大学を超えて全国から応募が期待できると思います。
 
表1.新産婦人科専門研修プログラムで経験が必須な最低症例数
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1. 分娩症例150例以上(帝切を含む)
2. 帝王切開:執刀医として30例以上
3. 前置胎盤あるいは常位胎盤早期剥離症例の帝切 執刀あるいは助手として5例以上
4. 子宮内容除去術あるいは子宮内膜全面掻爬を10例以上
5. 腟式手術(円錐切除術、頸管縫縮術を含む)10例以上
6. 子宮付属器摘出術あるいは卵巣嚢胞摘出術 10例以上(腹腔鏡手術でもよい)
7. 単純子宮全摘出術執刀 10例以上(開腹手術5例以上を含む)
8. 浸潤がん手術 執刀あるいは助手として5例以上
9. 腹腔鏡下手術 執刀あるいは助手として15例以上
10.   不妊症治療チームの一員として不妊症の原因検索、あるいは治療に関わった 5例以上
11.   採卵または胚移植 術者あるいは助手 5例以上
12.   思春期や更年期以降の女性の医療(HRTを含む) 5例以上
13.   OC/LEPの経験 5例以上
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2.三重大学産婦人科専門研修プログラムの優位性
(1)  三重大学附属病院で全てを学べると同時に、各分野の超一流の施設と連携した
 それでは、三重大学産婦人科専門研修プログラムの優位性を述べたいと思います。第一に、各分野の超一流の施設と連携体制を取ったということでしょう。しかし、もっと大事なことは、ただ単に大学附属病院で経験できない領域を「アウトソーシング」するのではなく、常に大学でも診療できるような努力が必要であるということです。われわれは、超一流の施設や医師の教えを乞うことは必要ですが、自分たちの施設や三重県の施設での診療の充実を常にめざしていくべきと考えています。三重大学附属病院では、①生殖・内分泌領域、②婦人科腫瘍領域、③周産期領域、④女性のヘルスケア領域の4領域とトップレベルの診療と、豊富な症例数と優秀な教育スタッフがおり、症例数、指導体制をみても自信をもって勧めることのできる充実した教育体制を確立したと自負しております。
三重大学産婦人科は、医局員がすべての産婦人科領域をカバーするという意気込みで過去、努力してきた甲斐があり、大学附属病院で、ほとんどの疾患が治療できるようになりました。しかし、その理由として、常に全国の超一流施設と交流し、教えを乞う努力を続けていったことも原因でしょう。本専門医研修プログラムを立てる上でも、このような施設に連携施設となっていただきました。
 
    生殖・内分泌領域:
三重大学研修プログラムでは、平成27年に開設した三重大学附属病院に高度生殖センターにおいて、専攻医は最低1か月の専属研修を行うことを必須としました。この1か月で、卵胞のモニター、治療方針を立てることはもちろんのこと、採卵まで経験できます。さらに、大阪にあるIVFなんば(中岡義晴院長)とIVF大阪(福田愛作院長)は、わが国の不妊症治療のトップセンターです。1か月平均40006000人の患者を診療されています。理事長の森本良晴先生との昔からの交友から、三重大学からは、常時1人以上の医局員を派遣していますが、三重大学から派遣した医師は、1年間で500件以上の採卵が経験できます。
    婦人科腫瘍領域
 三重大学には、腫瘍専門医が3人以上は常置しており、婦人科手術は月45件平均であり、悪性腫瘍手術も年間100件以上あります。兵庫県立がんセンター(山口聡産婦人科部長)は、年間600件以上の悪性腫瘍の手術があり、わがくに有数の悪性腫瘍の専門機関です。子宮頸癌の手術数で日本一になったこともあります。私は、前産婦人科部長、前院長の西村隆一郎先生と懇意であり、平成27年に同センターの退職者が多かった関係から、三重大学からの医師派遣を要請されました。このような経緯から、今回連携施設に入っていただきました。
    腹腔鏡手術
 腹腔鏡手術は、産婦人科手術のまさにパラダイムシフトであり、その対象疾患を悪性腫瘍まで広げてきています。私は、産婦人科医にとって腹腔鏡手術は、帝王切開のように必須手術だと思っています。誰もが、循環動態が安定している子宮外妊娠は、腹腔鏡手術ができるべきでしょう。指針でも、表1にあるように履修が必須であり、15例は執刀医か助手に入らなければいけなくなりました。三重大学でも腹腔鏡手術を年間150200症例行っており、子宮体癌Ia期も保険適応として年間12例以上行っています。また、子宮頸癌にも広げ、ロボット(ダビンチ)手術にも取り組みつつあります。しかし、わが国で最も症例数が多く、最も最先端を行っているのは、安藤正明先生が院長をされている、倉敷成人病センターでしょう。年間1300例の腹腔鏡手術を行っておられます。三重大学は、安藤先生に手術指導を受け、また日本やタイでの先生が主催なさる講習会に定期的に参加させていただいております。三重大学からも、常時、専攻医を派遣することもあり、今回連携施設に入っていただきました。
 
1. 三重大学産婦人科研修プログラム連携病院(県外)
(1)  周産期と循環器病の専門性を追求する我が国唯一のプログラム
 基幹病院におけるプログラム作成には、専門研修プログラム整備基準に沿って進めることになります。たとえば、産婦人科の4つの領域を隈なく研修するように指導されています。しかし、プログラム整備基準にもあるように研究マインドを持つことも必要です。三重大学産婦人科研修プログラムでは、循環器病を合併した母体と胎児の医療を学べ、研究発表を行なえ得ることをアピールしたいです。循環器病は、約100人に1人は先天性心疾患などの循環器病合併妊娠であり、同じく約100人に1人は胎児心臓病であり、日常診療で比較的よく遭遇する疾患です。昨年の、三重産婦人科医会報に書きましたが、2014年(平成26年)5月から東京府中市の榊原記念病院に産婦人科の診療を、桂木真司部長のもとで開始し、現在は医師計5人になっております。母体胎児の循環器病合併症例の分娩は月に約15件となり、胎児心疾患は年間約60例と全国のトップレベルです。つい最近、分娩後の急性心不全に、大動脈弁置換術とともに補助人工心臓を装着し、救命した例を経験するなど、着々と成果を出しています。榊原記念病院は、2014年の分娩は全体では100件未満であったため、プログラムの連携病院の申請は2016年度となりますが、症例数は月ごとに増加しており、専攻医にとって魅力的な研修病院と思います。また、私の前任地であります国立循環器病研究センター周産期・婦人科も年間訳100件の循環器病合併妊娠と、約40件の胎児心臓病の症例が経験でき、連携病院となってもらいました。
図2.三重大学産婦人科研修プログラム連携病院(県内)
 
(1)  周産期1次施設と組んだユニークな構成
 他の産婦人科プログラムでは、公的病院とのみ連携を結んでいるところが多いと思います。しかし、プライマリーケア、正常妊婦健診・分娩、病診連携など多くのことを学ぶ必要があります。三重大学産婦人科専門研修プログラムのユニークなことは、分娩数が多く指導体制が充実している周産期1次施設に連携病院となっていただいたことでしょう。医会報にも書きましたが、三重県においても2次周産期施設の分娩数が激減し、1次と3次施設へのシフト、すなわち「2極化」がおこっています。したがって、多くの妊娠、分娩症例を経験するために、1次施設との連携は必須と考えています。プログラムでは、1)前年度の診療実績、2)専門研修指導医数および専攻医数、3)前年度の学術活動、4)カンファレンス・抄読会の数、文献検索システムの有無などの施設状況、5)サブスペシャルティー領域の専門医数などを年ごとに報告しなければならず、指導体制が充実していると判断した「ヨナハ病院」、「白子クリニック」および「森川病院」の3施設に、連携病院となっていただくようにお願いしました。上記の1)~5)の充実とともに、周辺の婦人科診療施設との連携も考慮しながら、進めてまいりたいと思います。
 
(2)  新生児集中治療室(NICU)勤務を勧める
 新生児集中治療室(NICU)における経験は、産婦人科専門医は必須ではありません。また小児科専門医取得でも行うべき領域ではあるものの、決して必須となっていません。NICUと新生児医療は、産婦人科が行う周産期医療には無くてはならないものです。小児科では、NICUは「チョイス」ですが、われわれ産婦人科は「マスト」な医療です。したがって、平成28年度の入局者から、NICUでの研修を最低2か月行うことを薦めています。ほとんどが、三重大学附属病院のNICUで行いますが、その他の行いうる施設であれば、小児科との協力体制のもとで、連携施設のどこでも良いと考えています。
 
(3)  僻地の専門医研修はない
 三重大学のような地方大学は、産婦人科医療、特に周産期医療のために、専攻医に人気のない過疎地に医師を派遣することが多いです。しかし、三重大学プログラムでは、いわゆる「僻地」研修は全くありません。平成283月をもって、30年以上続けてきた東紀州地域の常勤医の派遣を休止しました。その結果、三重大学専門研修プログラム連携施設での最南端は、伊勢日赤病院となります。専門研修プログラム指針には、地域医療・地域連携への対応や地域において指導の質を落とさないための方法など、都市と地域との医師偏在を防ぐための方策が書かれていますが、今回の新専門医制度によって、結果的に地域差がさらに生まれることに繋がるものと予想しています。三重県全体が地域ですし、地域の産婦人科医療をベースに研究すること、すなわちpopulation based studyをわれわれは目指しているため、地域をおろそかにしているわけではないと思っております。
 
おわりに
 専門医研修プログラムにおいても、若者が何と望んでいるのかを考えながら、常にアップデートしていかなければなりません。同門会の先生方のさらなるご支援をよろしくお願い申し上げます。
 
 
 

2016/02/16

ヒートショック蛋白と耐性獲得

 15年ぐらい前になりますが、ヒートショック蛋白という物質を研究した時期があります。ヒートショック蛋白というのは、熱を負荷することによって細胞に現れる蛋白で、細胞が傷つくことや死から守る役割をします。そのメカニズムは、変性し無機能となった蛋白を折りたたみ直し機能を回復したり、回復不能と判断すればライソゾームなどの細胞内の不要物処理場へ輸送したりすることです。いわゆる「細胞のお世話係」といったところでしょうか。実際、このように細胞構造蛋白や酵素などの「主役」として働くとこもなく、全ての機能が他人のお世話をするという「脇役」に徹しているという何とも甲斐甲斐しい物質です。これらの物質を「分子シャペロン」と呼びますが、ヒートショック蛋白も分子シャペロンの一つです(図)。このシャペロンという語源は、社交界にデビューする女性の介添え役の年配の女性をシャペロンと呼ぶところからきているらしいです。


 さて、私が行っていた実験は、赤ちゃんネズミを使った脳障害に関するものです。赤ちゃんネズミを41度の環境に15分程置いておくと、次にくる低酸素ストレス、通常では脳障害を起こすぐらいの強いストレスに耐え抜き、脳障害を起こさないという結果でした。こういった、障害的ストレスの前に、それよりもやや軽いストレスを負荷すると、本番のストレスによる障害が免れるという現象「ストレス耐性」とよびます。この耐性を獲得するためにヒートショック蛋白の発現が大きく関与しているのです。私の実験の場合、幼弱ネズミの場合、神経細胞やグリア細胞のヒートショック蛋白の発現よりも、血管におけるヒートショック蛋白の発現の方が、ストレス耐性獲得に重要であるという結果がユニークなところでした。

 なぜこんな話を、ここでお話しするかですが、「われわれの体には、ストレスを処理し、その後それ以上のストレスに立ち向かうことができる機構が自然に備わっている」ということを強調したかったからです。ゴルフはとかく、「我慢のスポーツ」と呼ばれます。なかなかパーが取れないときでも、淡々とプレーすることがスコアメイクにつながる様です。この様なイライラの時に、一か八かで、ショートカットを狙ったりすると、トラブルに巻き込まれ、大たたきすることを、しばしば経験します。我慢しているときに、ヒートショック蛋白が出ていて、自分が大きく成長しているのだと思えば、焦りも無くなるのではないでしょうか?

 実際、15年前の私は、アラフォーで患者さんの診療、当直、下の先生や学生さんの指導、学会活動、医局のまとめ役など大変多くの仕事があり、家庭では3人の子どもも中学生、小学生、幼稚園と、自分や家族がこの後どうなっていくか不安でした。こういった時期に、「ヒートショック蛋白」を研究することによって、自分は今「耐性獲得」をしているのだと言い聞かせ、決してネガティブな気持ちにならなかったのを覚えています。分娩という生理現象も、狭い産道を通ってくる胎児に、生まれた後の数々の困難に立ち向かう「耐性獲得」現象であるということもできるのだと思っています。

 どうか皆さんも、苦しい時や我慢が必要な時もあるでしょうが、来るべきもっと辛い場面に対応できるように、いまヒートショック蛋白を産生して耐性獲得をしているのだと考えて、頑張ってください。

妊娠・分娩のハイリスク、ローリスク


 正常妊娠・分娩は、分娩が終わった後に経過が正常で、元気な赤ちゃんとお母さんが退院されたときに呼ばれるものです。正常妊娠と思っていても、その20%前後が異常経過を取るといわれています。したがって、異常となる可能性の低い例をローリスク妊娠、可能性が高い例をハイリスク妊娠と呼ぶようにしています。「ローリスク妊娠・分娩は助産師が、ハイリスクは産科医が担当する」という文言を良く見ますが、本当にそうでしょうか。この考えは、Aのモデルがイメージ図ですが、私はBのモデルでなければいけないと思います。ハイリスクに対しても、助産師としての役割はあります。例えば、分娩時の子宮内蘇生、新生児蘇生、死産後のグリーフケアなど、助産師として習得しておかなければならないことがたくさんあります。また「周産期センターは高度、ハイリスク医療、一方、一次施設はローリスクな医療」ということも良く見かけます。しかし、勤務しているスタッフの専門知識と技能に関して考えると、本当にいいのでしょうか?役割分担しすぎた体制では、そこに勤務するスタッフは、自然と狭い見識になってしまいがちではないでしょうか?そのため、日本看護協会は、「助産師出向支援モデル事業」を平成23年度から立ち上げ、一次施設と高次施設の助産師の人事交流をはかっています。まだ、その効果は目に見えていませんが、AのモデルからBのモデルのイメージへの発想の転換ができるのではと、期待しています。三重大学病院でも母性棟の助産師が、三重県下の一次施設の助産師と交換留学的な交流を平成27年から開始することになりました。1か月前後という比較的短期間ですが、大学病院の助産師にはより多くの自然分娩が取り上げられるという、キャリア上のメリットがあり、また、一次施設では、ハイリスク妊娠が最終的な段階まで経験できるようになります。それ以上の大きな副産物も期待しています。本年の母性衛生学会では、その結果を報告できるものと思います。

産婦人科診療は将来どの様になるのか?

第一次産婦人科入局ブーム

 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)後、ベビーブーム時代が訪れました。昭和2224年(19471949年)の3年間は年間260万もの出生がありました。図1に、わが国の出生数と、大阪大学産婦人科教室の入局数の推移を対比して表しました。ベビーブーム時代に数年遅れるように、入局数が推移していることが分かります。手元にあった資料が阪大のみであったため、図にしましたが、おおよそ全国の大学産婦人科医局においても、昭和23年から33年(19481958年)の約10年間の間、「産婦人科入局ブーム」がありました。


図1.わが国の出生数、人工中絶数、および大阪大学産婦人科入局数の推移

 
 この時代の産婦人科医療は、分娩数が増加したという以外に、それ以前に比べて内容も大きく変化しました。まず、戦後、GHQの指導によって、妊娠・分娩に関する法規が改正されました。たとえば、昭和23年(1948年)には、保健婦助産婦看護婦法、通称「保助看法」が制定され、産婆は助産婦と呼ばれるようになります。この時代の分娩はほとんど自宅でしたので、産婆さんが分娩を主に扱っており、妊娠や育児は地域の保健婦さんが戦後の混乱期に主役として実際あたっていました。また、同年に制定された「優生保護法」は、復員による人口増加と経済的問題、強姦による妊娠に関する問題など、法の下に優生手術と妊娠中絶術を施行するためのもので、昭和31年(1956年)をピークに、年間100万件以上ありました。これは、現在の20万件の5倍になります。さらに、分娩を行う場所に関して、自宅分娩が大半であったものが、施設分娩へと移行していきます。そして、昭和35年(1960年)にはちょうど、自宅分娩数と施設分娩数が半々となります。それと伴に、分娩を行う主体が、助産師から医師へと変わってくるのです。すなわち、妊娠・出産・育児に産婦人科医が主役として関与してくるようになります。当然、「産科学」という学問の重要性が強調され、大学を中心に徐々に体系づけられていきます。

第一次産婦人科入局ブームの入局者は、この出産と人工中絶の多さを背景に、新規開業する医師が多くなりました。現在のように、出産も妊娠中絶も、どちらも自費診療が主でしたので、開業とくに一人で開業しても、十分に生計を立てていくことができ、全国で多くの産婦人科開業ブームが起こったのです。19601970年(昭和3545年)の10年間あたりと思われます

産婦人科医師養成機関も、大学の医局に属し指導を受けることが唯一の手段でありました。医局に属し、一定の臨床施設を経由した後に、開業をする方が多かったわけです。医師の研修施設も、大学病院では分娩数や手術数などの症例数も少ないために、基本を学んだ後に、関連病院に出向して学びました。各地方自治体も、それぞれの地域で市立、町立病院があり、厚生連関係の病院、日赤病院、社会保険病院、国立病院などとも、症例数、分娩数、手術数も豊富でした。

 

2.訪れた変化

 新しく産婦人科医になる数は、1970年~2003年(昭和45~平成15年)の約30年間は、医学部卒業生の約4%、全国的に400人程度と安定期を迎えます。分娩を取り扱つかう医師の観点からみると、自治体病院などへの医師の派遣は大学医局から、また個人診療所・病院への当直も大学医局から行っていたわけで、大学にいる無給医局員の収入源になっていました。産婦人科医師は、足らないまでも何とかバランスはとれていたわけです。

しかし、2004年(平成16年)の新研修医制度が始まり、医学部卒業後2年間のローテーションが必須となってから、事態は大きく変わりました。新入局産婦人科医が、20042005年にはほぼゼロになりました。また、我が国の出産数も次第に減少し、110万程度、人工中絶術数も20万件程度となりました。また、新研修施設は、必ずしも大学医学部である必要がなく、救急などが充実している施設を、医学部卒業生は選択する傾向が強く、大学産婦人科医局に所属する医師が極端に減少したのです。その結果、自治体病院などへの医師の派遣ができなくなり、大学へ医師を呼び戻すことなどが行われ、その結果自治体病院の産婦人科を維持できなくなります。当然、産婦人科医師数が少なくなった病院の士気は低下し、取り扱い分娩数などが減少してきました。この傾向は、都市部よりも、三重県などの地方で強くなり、地域格差が明らかになってきたのです。

 

3.三重県における2次周産期施設の分娩取り扱い数の減少

 図2に、三重県における2次周産期施設と呼ばれる、鈴鹿中央病院、松阪中央病院、済生会松阪病院、紀南病院の過去10年間の分娩数の推移を示しました。年間300400件あった分娩数が、徐々に減少してきており、鈴鹿中央病院と紀南病院は、100件を割ってしまいました。



2.三重県における2次産科施設の分娩数の推移

 
紀南病院は、熊野市にある大石産婦人科の分娩数を増加させ経営を安定化させるために、須崎院長と開設者のご理解を得て、平成279月から分娩を休止いたしました。しかし、その結果として、2006年(平成18年)に、尾鷲市民病院の医師を紀南病院に合流した時のような、住民運動は全く起こりませんでした。紀南病院では妊婦健診や新生児健診などが継続されていることもあると思いますが、いずれにしても、分娩休止とアナウンスする前の、分娩数減少、すなわち地域のニーズの低下が、住民の要求運動やトラブルが無かった大きな要因だと考えております。同様に、鈴鹿中央病院も、平成26年から年間分娩数が100件以下となり、平成284月から分娩を休止する予定です。



3.三重県における3次産科施設の分娩数の推移


 一方、三重大学、三重中央医療センター、市立四日市病院は、分娩数が年々増加または維持されています。(図3)また、1次産科施設である診療所や個人病院での分娩は、三重県全体で約70%を占めています。個人施設で分娩を中止する施設はいくつかありますが、全体として1次周産期施設での分娩数は一定か微増しています。 すなわち、分娩取り扱いの場所からみたところ、2次周産期施設でのお産が減少し、1次と3次施設における分娩が増加するというように2極化してきたわけです。


4.1次周産期施設を新専門医制度の連携型施設に

 日本専門医機構による新専門医制度が、平成29年度から始まります。現在はその移行期であり、平成29年に向けての準備期間です。われわれの分野である、産婦人科領域専門研修プログラムにおいても、研修施設として「基幹施設」と「連携施設」の2種類で構成されています。それぞれ、症例数、手術数、専門医・指導医の数、論文数など実績と活動状況で規定されています。三重県の場合、三重大学が「基幹施設」となり、私が専門研修プログラム総括責任者となっておりますが、三重大学産婦人科の関連病院、連携病院にお願いして「連携施設」になっていただき、専門研修プログラムを策定しております。この連携施設にも、分娩数が年間100件以上あることという規定があります。したがって、自治体病院などの公的病院のみでは、専門医研修が難しくなってきました。そこで、三重県では、実績のある個人病院である「ヨナハ病院」、「白子クリニック」および「森川病院」の3つの施設に「連携施設」になっていただくように、準備を進めているところです。

 ここで、日本専門医機構による産婦人科領域専門研修プログラムについて、もう少し詳しくお話しいたます。「基幹施設」と「連携施設」による専門研修施設群には、研修の質を維持するために「専門研修プログラム管理委員会」を少なくとも6か月に1度開催することになっています。そして、基幹、連携施設とも以下の報告を行い、改善すべき点を明らかにし、より良い研修プログラムになることが義務付けられているのです。すなわち、1)前年度の診療実績、2)専門研修指導医数および専攻医数、3)前年度の学術活動、4)施設状況(カンファレンス・抄読会の数、文献検索システムなど)、5)サブスペシャルティー領域の専門医数です。したがって、上記の個人病院にも、これらをお願いした次第です。医会の皆様には、「連携施設」選定の理由としてこの様な義務を果たし得る病院と判断したためであり、この点ご理解を賜りたいと存じます。三重大学を基幹施設とする産婦人科専門医制度の優位性については、同門会誌に記載しましたので、ご参照ください。
 

5.勤務医と開業医

 多くの出産、人工妊娠中絶、自費診療を背景に、わが国において19601970年(昭和3545年)の10年間あたりに、産婦人科開業ブームがあったことを、先に述べました。開業医は、いつ起こるかわからない患者の急変や分娩に備えて、長距離の旅行などはほとんどされず、一所懸命に地域の産婦人科医療を支えてこられました。夜間や休日などは、大学医局からの応援を得ている方もありましたが、ほとんどの時間を、患者さんのために尽くしてこられました。しかし、「ライフワークバランス」という言葉が最近現れてきたように、次第にそういった生き方を若者は真似していません。複数人での開業が、近年では主流となっています。日本産婦人科医会に、勤務医部会という部会があるように、開業医と勤務医は明らか分離される職種です。しかし、将来の産婦人科医療の生末を考えると、私は、開業医と勤務医の境を無くしていく方向性が必要と考えています。そのためにも、医局に所属しながら、開業のノウハウを学べる機会を作るべきと、「医局開業」に取り組みました。


6.医局開業に向けて

 この時期、三重大学産婦人科医局で開業するという4つの必要性について以下に述べます。

1)サテライトクリニックとして

 平成275月から、三重大学医学部附属病院の外来棟オープンとともに、高度生殖医療センターを開設いたしました。三重県において、不妊医療の必要性があったのでしょうか、多くの患者さんで賑わっています。月平均で、20件を超す採卵、平均4件の卵管鏡検査などスタッフは多忙を極めています。不妊外来に通われる女性は、勤務されている方が多いため、本来の不妊クリニックは、夕方から夜にかけての夕夜診や、土日の休日診の方が患者さんにとって、より都合が良いのです。大学病院は、この点融通が利かないのが悩みであり、サテライトクリニックを開き、大学病院外来が開いている時間外に診療をし、排卵誘発剤の投与や、卵胞径の計測などフォローアップすることが必要となりました。また、より一般的な女性のヘルスケアに対応するためにも、外来トレーニングとして「実習農園」的存在が必要になってきました。


2)開業医のノウハウを勤務医が習得するため

 私は、卒業後、国立、都道府県立、および市立の病院の勤務医として働いてきましたが、研修医時代から、常々「開業医さんの患者中心医療の徹底と逞しさ」に対してあこがれをもっていました。卒後5年目に、東京オペグループの会長である杉山四郎先生の東京杉並区の病院に、単身見学に行かせていただき、その診療と手術の鮮やかさに驚いたことを思い出します。「東京オペグループに入れてください」とお願いしたところ、「君が開業したらね」と言われました。開業される先生は特に初代では、銀行からの融資、看護師、助産師などのスタッフ集め、労働管理、保険請求など、われわれ勤務医の知らない苦労をやってこられています。これも、すべて大学医局を辞めてから自ら学ばれたわけです。今後、開業医と勤務医の融合を考える上で、医局に所属しながら、このような医師、社会人として重要なことがらを学ぶ必要があると思います。


3)女医の活躍する場として

私は、産婦人科女性医師と呼ぶよりも、産婦人科女医と呼びたいです。女医はJOY(喜び)につながる響きがあるからです。さて、以前の医会報でも述べましたが、産婦人科女医に生きがいをもって生きていくために、自分自身の興味も大切ですが、社会や患者さんが、女医に何を最も求めているかを考えることも大事です。患者さんの多くの声から、産婦人科の患者さんは、外来受診をするとき、最初に診てもらう医師は女医であることを強く望んでいることがわかりました。女性の名前の付いた○○子クリニックが全国的に増えていることからも、ホルモン療法やがん検診といった外来診療において、多くの患者さんは、外来にかかるときに女医を求めて受診しています。また、女医自身に子供ができた場合でも、外来であれば時間的に余裕があり、仕事をつづけていくことができます。しかし、あくまでも我々はプロですので、外来診療においても標準的以上のレベルを目指さなければなりません。向こうからの要請もありましたが、医局長の神元有紀君に、神戸三宮の山辺レディスクリニックに毎週研修にいってもらい、女医外来診療のノウハウを習得してもらっています。

 
4)女性アスリート・女性障がい者アスリート診療のために

 平成27年度から、文部科学研究として「女性障がい者アスリートの現状と問題点について」という研究費を取得し、研究を続けています。これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックでメダルを量産するために設けられた研究で、三重大学は国立スポーツ科学センター(JISS)病院の野瀬さやか先生と協同研究をしています。現在は、神元有紀君をはじめとした医局の女医たちが、パラリンピックのメダリストや車いすバスケット選手など多くの女性障がい者アスリートに、直接会って悩みなどを聞き取り調査しています。われわれは、医師ですので聞き取り調査のみでなく、彼女たちを治療し、より良い成績をとってもらうことが必要であり、その基盤として、全国の女性アスリートの便宜を図るため、診療時間に比較的融通が利く医局運営のクリニックが必要となってきました。

 
7.これまでの経過

前述しました女性障がい者アスリート関連の研究をしている関係から、平成2711月に、津市久居で整形外科「みどりクリニック」を開業されている、瀬戸口芳正先生とお会いする機会を得ました。先生は、偶然にも宮崎県出身であり宮崎医科大学卒業で私の後輩にあたりました。卒業後、スポーツ医学を志して、三重県津市一身田で開業されておられた小山先生に弟子入りされ、三重大学で麻酔科や集中治療を学ばれた後、津市久居の地で開業されました。いまでは、プロ野球選手、プロレーサーやオリンピック選手など、全国から先生の腕を慕って集まり、みどりクリニックで治療し、合宿などを行っています。女性障がい者アスリート研究に協力してもらおうとお会いし、様々なお話しをしている際に、医局開業の話題になりました。先生は、2年前に新しいクリニックを開設したため、これまで10年間使っていた久居駅前のクリニックが空いているとのことで、リースして頂けるとのことでした。

 久居駅隣接のポルタで開業なさっている清水克彦先生に、同年1127日にお会いし、近くで開業するお許しを得、また久居医師会長の上野先生にも許可を得ました。医局の中でも、開業委員会なるものを立ち上げ(池田、奥川、神元、大里、大里朱里)、透明性をもって進めていっております。今後、医会の皆様のお役にたてるよう、進めてまいりますので、ご理解、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。