2016/02/16

産婦人科診療は将来どの様になるのか?

第一次産婦人科入局ブーム

 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)後、ベビーブーム時代が訪れました。昭和2224年(19471949年)の3年間は年間260万もの出生がありました。図1に、わが国の出生数と、大阪大学産婦人科教室の入局数の推移を対比して表しました。ベビーブーム時代に数年遅れるように、入局数が推移していることが分かります。手元にあった資料が阪大のみであったため、図にしましたが、おおよそ全国の大学産婦人科医局においても、昭和23年から33年(19481958年)の約10年間の間、「産婦人科入局ブーム」がありました。


図1.わが国の出生数、人工中絶数、および大阪大学産婦人科入局数の推移

 
 この時代の産婦人科医療は、分娩数が増加したという以外に、それ以前に比べて内容も大きく変化しました。まず、戦後、GHQの指導によって、妊娠・分娩に関する法規が改正されました。たとえば、昭和23年(1948年)には、保健婦助産婦看護婦法、通称「保助看法」が制定され、産婆は助産婦と呼ばれるようになります。この時代の分娩はほとんど自宅でしたので、産婆さんが分娩を主に扱っており、妊娠や育児は地域の保健婦さんが戦後の混乱期に主役として実際あたっていました。また、同年に制定された「優生保護法」は、復員による人口増加と経済的問題、強姦による妊娠に関する問題など、法の下に優生手術と妊娠中絶術を施行するためのもので、昭和31年(1956年)をピークに、年間100万件以上ありました。これは、現在の20万件の5倍になります。さらに、分娩を行う場所に関して、自宅分娩が大半であったものが、施設分娩へと移行していきます。そして、昭和35年(1960年)にはちょうど、自宅分娩数と施設分娩数が半々となります。それと伴に、分娩を行う主体が、助産師から医師へと変わってくるのです。すなわち、妊娠・出産・育児に産婦人科医が主役として関与してくるようになります。当然、「産科学」という学問の重要性が強調され、大学を中心に徐々に体系づけられていきます。

第一次産婦人科入局ブームの入局者は、この出産と人工中絶の多さを背景に、新規開業する医師が多くなりました。現在のように、出産も妊娠中絶も、どちらも自費診療が主でしたので、開業とくに一人で開業しても、十分に生計を立てていくことができ、全国で多くの産婦人科開業ブームが起こったのです。19601970年(昭和3545年)の10年間あたりと思われます

産婦人科医師養成機関も、大学の医局に属し指導を受けることが唯一の手段でありました。医局に属し、一定の臨床施設を経由した後に、開業をする方が多かったわけです。医師の研修施設も、大学病院では分娩数や手術数などの症例数も少ないために、基本を学んだ後に、関連病院に出向して学びました。各地方自治体も、それぞれの地域で市立、町立病院があり、厚生連関係の病院、日赤病院、社会保険病院、国立病院などとも、症例数、分娩数、手術数も豊富でした。

 

2.訪れた変化

 新しく産婦人科医になる数は、1970年~2003年(昭和45~平成15年)の約30年間は、医学部卒業生の約4%、全国的に400人程度と安定期を迎えます。分娩を取り扱つかう医師の観点からみると、自治体病院などへの医師の派遣は大学医局から、また個人診療所・病院への当直も大学医局から行っていたわけで、大学にいる無給医局員の収入源になっていました。産婦人科医師は、足らないまでも何とかバランスはとれていたわけです。

しかし、2004年(平成16年)の新研修医制度が始まり、医学部卒業後2年間のローテーションが必須となってから、事態は大きく変わりました。新入局産婦人科医が、20042005年にはほぼゼロになりました。また、我が国の出産数も次第に減少し、110万程度、人工中絶術数も20万件程度となりました。また、新研修施設は、必ずしも大学医学部である必要がなく、救急などが充実している施設を、医学部卒業生は選択する傾向が強く、大学産婦人科医局に所属する医師が極端に減少したのです。その結果、自治体病院などへの医師の派遣ができなくなり、大学へ医師を呼び戻すことなどが行われ、その結果自治体病院の産婦人科を維持できなくなります。当然、産婦人科医師数が少なくなった病院の士気は低下し、取り扱い分娩数などが減少してきました。この傾向は、都市部よりも、三重県などの地方で強くなり、地域格差が明らかになってきたのです。

 

3.三重県における2次周産期施設の分娩取り扱い数の減少

 図2に、三重県における2次周産期施設と呼ばれる、鈴鹿中央病院、松阪中央病院、済生会松阪病院、紀南病院の過去10年間の分娩数の推移を示しました。年間300400件あった分娩数が、徐々に減少してきており、鈴鹿中央病院と紀南病院は、100件を割ってしまいました。



2.三重県における2次産科施設の分娩数の推移

 
紀南病院は、熊野市にある大石産婦人科の分娩数を増加させ経営を安定化させるために、須崎院長と開設者のご理解を得て、平成279月から分娩を休止いたしました。しかし、その結果として、2006年(平成18年)に、尾鷲市民病院の医師を紀南病院に合流した時のような、住民運動は全く起こりませんでした。紀南病院では妊婦健診や新生児健診などが継続されていることもあると思いますが、いずれにしても、分娩休止とアナウンスする前の、分娩数減少、すなわち地域のニーズの低下が、住民の要求運動やトラブルが無かった大きな要因だと考えております。同様に、鈴鹿中央病院も、平成26年から年間分娩数が100件以下となり、平成284月から分娩を休止する予定です。



3.三重県における3次産科施設の分娩数の推移


 一方、三重大学、三重中央医療センター、市立四日市病院は、分娩数が年々増加または維持されています。(図3)また、1次産科施設である診療所や個人病院での分娩は、三重県全体で約70%を占めています。個人施設で分娩を中止する施設はいくつかありますが、全体として1次周産期施設での分娩数は一定か微増しています。 すなわち、分娩取り扱いの場所からみたところ、2次周産期施設でのお産が減少し、1次と3次施設における分娩が増加するというように2極化してきたわけです。


4.1次周産期施設を新専門医制度の連携型施設に

 日本専門医機構による新専門医制度が、平成29年度から始まります。現在はその移行期であり、平成29年に向けての準備期間です。われわれの分野である、産婦人科領域専門研修プログラムにおいても、研修施設として「基幹施設」と「連携施設」の2種類で構成されています。それぞれ、症例数、手術数、専門医・指導医の数、論文数など実績と活動状況で規定されています。三重県の場合、三重大学が「基幹施設」となり、私が専門研修プログラム総括責任者となっておりますが、三重大学産婦人科の関連病院、連携病院にお願いして「連携施設」になっていただき、専門研修プログラムを策定しております。この連携施設にも、分娩数が年間100件以上あることという規定があります。したがって、自治体病院などの公的病院のみでは、専門医研修が難しくなってきました。そこで、三重県では、実績のある個人病院である「ヨナハ病院」、「白子クリニック」および「森川病院」の3つの施設に「連携施設」になっていただくように、準備を進めているところです。

 ここで、日本専門医機構による産婦人科領域専門研修プログラムについて、もう少し詳しくお話しいたます。「基幹施設」と「連携施設」による専門研修施設群には、研修の質を維持するために「専門研修プログラム管理委員会」を少なくとも6か月に1度開催することになっています。そして、基幹、連携施設とも以下の報告を行い、改善すべき点を明らかにし、より良い研修プログラムになることが義務付けられているのです。すなわち、1)前年度の診療実績、2)専門研修指導医数および専攻医数、3)前年度の学術活動、4)施設状況(カンファレンス・抄読会の数、文献検索システムなど)、5)サブスペシャルティー領域の専門医数です。したがって、上記の個人病院にも、これらをお願いした次第です。医会の皆様には、「連携施設」選定の理由としてこの様な義務を果たし得る病院と判断したためであり、この点ご理解を賜りたいと存じます。三重大学を基幹施設とする産婦人科専門医制度の優位性については、同門会誌に記載しましたので、ご参照ください。
 

5.勤務医と開業医

 多くの出産、人工妊娠中絶、自費診療を背景に、わが国において19601970年(昭和3545年)の10年間あたりに、産婦人科開業ブームがあったことを、先に述べました。開業医は、いつ起こるかわからない患者の急変や分娩に備えて、長距離の旅行などはほとんどされず、一所懸命に地域の産婦人科医療を支えてこられました。夜間や休日などは、大学医局からの応援を得ている方もありましたが、ほとんどの時間を、患者さんのために尽くしてこられました。しかし、「ライフワークバランス」という言葉が最近現れてきたように、次第にそういった生き方を若者は真似していません。複数人での開業が、近年では主流となっています。日本産婦人科医会に、勤務医部会という部会があるように、開業医と勤務医は明らか分離される職種です。しかし、将来の産婦人科医療の生末を考えると、私は、開業医と勤務医の境を無くしていく方向性が必要と考えています。そのためにも、医局に所属しながら、開業のノウハウを学べる機会を作るべきと、「医局開業」に取り組みました。


6.医局開業に向けて

 この時期、三重大学産婦人科医局で開業するという4つの必要性について以下に述べます。

1)サテライトクリニックとして

 平成275月から、三重大学医学部附属病院の外来棟オープンとともに、高度生殖医療センターを開設いたしました。三重県において、不妊医療の必要性があったのでしょうか、多くの患者さんで賑わっています。月平均で、20件を超す採卵、平均4件の卵管鏡検査などスタッフは多忙を極めています。不妊外来に通われる女性は、勤務されている方が多いため、本来の不妊クリニックは、夕方から夜にかけての夕夜診や、土日の休日診の方が患者さんにとって、より都合が良いのです。大学病院は、この点融通が利かないのが悩みであり、サテライトクリニックを開き、大学病院外来が開いている時間外に診療をし、排卵誘発剤の投与や、卵胞径の計測などフォローアップすることが必要となりました。また、より一般的な女性のヘルスケアに対応するためにも、外来トレーニングとして「実習農園」的存在が必要になってきました。


2)開業医のノウハウを勤務医が習得するため

 私は、卒業後、国立、都道府県立、および市立の病院の勤務医として働いてきましたが、研修医時代から、常々「開業医さんの患者中心医療の徹底と逞しさ」に対してあこがれをもっていました。卒後5年目に、東京オペグループの会長である杉山四郎先生の東京杉並区の病院に、単身見学に行かせていただき、その診療と手術の鮮やかさに驚いたことを思い出します。「東京オペグループに入れてください」とお願いしたところ、「君が開業したらね」と言われました。開業される先生は特に初代では、銀行からの融資、看護師、助産師などのスタッフ集め、労働管理、保険請求など、われわれ勤務医の知らない苦労をやってこられています。これも、すべて大学医局を辞めてから自ら学ばれたわけです。今後、開業医と勤務医の融合を考える上で、医局に所属しながら、このような医師、社会人として重要なことがらを学ぶ必要があると思います。


3)女医の活躍する場として

私は、産婦人科女性医師と呼ぶよりも、産婦人科女医と呼びたいです。女医はJOY(喜び)につながる響きがあるからです。さて、以前の医会報でも述べましたが、産婦人科女医に生きがいをもって生きていくために、自分自身の興味も大切ですが、社会や患者さんが、女医に何を最も求めているかを考えることも大事です。患者さんの多くの声から、産婦人科の患者さんは、外来受診をするとき、最初に診てもらう医師は女医であることを強く望んでいることがわかりました。女性の名前の付いた○○子クリニックが全国的に増えていることからも、ホルモン療法やがん検診といった外来診療において、多くの患者さんは、外来にかかるときに女医を求めて受診しています。また、女医自身に子供ができた場合でも、外来であれば時間的に余裕があり、仕事をつづけていくことができます。しかし、あくまでも我々はプロですので、外来診療においても標準的以上のレベルを目指さなければなりません。向こうからの要請もありましたが、医局長の神元有紀君に、神戸三宮の山辺レディスクリニックに毎週研修にいってもらい、女医外来診療のノウハウを習得してもらっています。

 
4)女性アスリート・女性障がい者アスリート診療のために

 平成27年度から、文部科学研究として「女性障がい者アスリートの現状と問題点について」という研究費を取得し、研究を続けています。これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックでメダルを量産するために設けられた研究で、三重大学は国立スポーツ科学センター(JISS)病院の野瀬さやか先生と協同研究をしています。現在は、神元有紀君をはじめとした医局の女医たちが、パラリンピックのメダリストや車いすバスケット選手など多くの女性障がい者アスリートに、直接会って悩みなどを聞き取り調査しています。われわれは、医師ですので聞き取り調査のみでなく、彼女たちを治療し、より良い成績をとってもらうことが必要であり、その基盤として、全国の女性アスリートの便宜を図るため、診療時間に比較的融通が利く医局運営のクリニックが必要となってきました。

 
7.これまでの経過

前述しました女性障がい者アスリート関連の研究をしている関係から、平成2711月に、津市久居で整形外科「みどりクリニック」を開業されている、瀬戸口芳正先生とお会いする機会を得ました。先生は、偶然にも宮崎県出身であり宮崎医科大学卒業で私の後輩にあたりました。卒業後、スポーツ医学を志して、三重県津市一身田で開業されておられた小山先生に弟子入りされ、三重大学で麻酔科や集中治療を学ばれた後、津市久居の地で開業されました。いまでは、プロ野球選手、プロレーサーやオリンピック選手など、全国から先生の腕を慕って集まり、みどりクリニックで治療し、合宿などを行っています。女性障がい者アスリート研究に協力してもらおうとお会いし、様々なお話しをしている際に、医局開業の話題になりました。先生は、2年前に新しいクリニックを開設したため、これまで10年間使っていた久居駅前のクリニックが空いているとのことで、リースして頂けるとのことでした。

 久居駅隣接のポルタで開業なさっている清水克彦先生に、同年1127日にお会いし、近くで開業するお許しを得、また久居医師会長の上野先生にも許可を得ました。医局の中でも、開業委員会なるものを立ち上げ(池田、奥川、神元、大里、大里朱里)、透明性をもって進めていっております。今後、医会の皆様のお役にたてるよう、進めてまいりますので、ご理解、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。