2016/02/16

産婦人科診療は将来どの様になるのか?

第一次産婦人科入局ブーム

 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)後、ベビーブーム時代が訪れました。昭和2224年(19471949年)の3年間は年間260万もの出生がありました。図1に、わが国の出生数と、大阪大学産婦人科教室の入局数の推移を対比して表しました。ベビーブーム時代に数年遅れるように、入局数が推移していることが分かります。手元にあった資料が阪大のみであったため、図にしましたが、おおよそ全国の大学産婦人科医局においても、昭和23年から33年(19481958年)の約10年間の間、「産婦人科入局ブーム」がありました。


図1.わが国の出生数、人工中絶数、および大阪大学産婦人科入局数の推移

 
 この時代の産婦人科医療は、分娩数が増加したという以外に、それ以前に比べて内容も大きく変化しました。まず、戦後、GHQの指導によって、妊娠・分娩に関する法規が改正されました。たとえば、昭和23年(1948年)には、保健婦助産婦看護婦法、通称「保助看法」が制定され、産婆は助産婦と呼ばれるようになります。この時代の分娩はほとんど自宅でしたので、産婆さんが分娩を主に扱っており、妊娠や育児は地域の保健婦さんが戦後の混乱期に主役として実際あたっていました。また、同年に制定された「優生保護法」は、復員による人口増加と経済的問題、強姦による妊娠に関する問題など、法の下に優生手術と妊娠中絶術を施行するためのもので、昭和31年(1956年)をピークに、年間100万件以上ありました。これは、現在の20万件の5倍になります。さらに、分娩を行う場所に関して、自宅分娩が大半であったものが、施設分娩へと移行していきます。そして、昭和35年(1960年)にはちょうど、自宅分娩数と施設分娩数が半々となります。それと伴に、分娩を行う主体が、助産師から医師へと変わってくるのです。すなわち、妊娠・出産・育児に産婦人科医が主役として関与してくるようになります。当然、「産科学」という学問の重要性が強調され、大学を中心に徐々に体系づけられていきます。

第一次産婦人科入局ブームの入局者は、この出産と人工中絶の多さを背景に、新規開業する医師が多くなりました。現在のように、出産も妊娠中絶も、どちらも自費診療が主でしたので、開業とくに一人で開業しても、十分に生計を立てていくことができ、全国で多くの産婦人科開業ブームが起こったのです。19601970年(昭和3545年)の10年間あたりと思われます

産婦人科医師養成機関も、大学の医局に属し指導を受けることが唯一の手段でありました。医局に属し、一定の臨床施設を経由した後に、開業をする方が多かったわけです。医師の研修施設も、大学病院では分娩数や手術数などの症例数も少ないために、基本を学んだ後に、関連病院に出向して学びました。各地方自治体も、それぞれの地域で市立、町立病院があり、厚生連関係の病院、日赤病院、社会保険病院、国立病院などとも、症例数、分娩数、手術数も豊富でした。

 

2.訪れた変化

 新しく産婦人科医になる数は、1970年~2003年(昭和45~平成15年)の約30年間は、医学部卒業生の約4%、全国的に400人程度と安定期を迎えます。分娩を取り扱つかう医師の観点からみると、自治体病院などへの医師の派遣は大学医局から、また個人診療所・病院への当直も大学医局から行っていたわけで、大学にいる無給医局員の収入源になっていました。産婦人科医師は、足らないまでも何とかバランスはとれていたわけです。

しかし、2004年(平成16年)の新研修医制度が始まり、医学部卒業後2年間のローテーションが必須となってから、事態は大きく変わりました。新入局産婦人科医が、20042005年にはほぼゼロになりました。また、我が国の出産数も次第に減少し、110万程度、人工中絶術数も20万件程度となりました。また、新研修施設は、必ずしも大学医学部である必要がなく、救急などが充実している施設を、医学部卒業生は選択する傾向が強く、大学産婦人科医局に所属する医師が極端に減少したのです。その結果、自治体病院などへの医師の派遣ができなくなり、大学へ医師を呼び戻すことなどが行われ、その結果自治体病院の産婦人科を維持できなくなります。当然、産婦人科医師数が少なくなった病院の士気は低下し、取り扱い分娩数などが減少してきました。この傾向は、都市部よりも、三重県などの地方で強くなり、地域格差が明らかになってきたのです。

 

3.三重県における2次周産期施設の分娩取り扱い数の減少

 図2に、三重県における2次周産期施設と呼ばれる、鈴鹿中央病院、松阪中央病院、済生会松阪病院、紀南病院の過去10年間の分娩数の推移を示しました。年間300400件あった分娩数が、徐々に減少してきており、鈴鹿中央病院と紀南病院は、100件を割ってしまいました。



2.三重県における2次産科施設の分娩数の推移

 
紀南病院は、熊野市にある大石産婦人科の分娩数を増加させ経営を安定化させるために、須崎院長と開設者のご理解を得て、平成279月から分娩を休止いたしました。しかし、その結果として、2006年(平成18年)に、尾鷲市民病院の医師を紀南病院に合流した時のような、住民運動は全く起こりませんでした。紀南病院では妊婦健診や新生児健診などが継続されていることもあると思いますが、いずれにしても、分娩休止とアナウンスする前の、分娩数減少、すなわち地域のニーズの低下が、住民の要求運動やトラブルが無かった大きな要因だと考えております。同様に、鈴鹿中央病院も、平成26年から年間分娩数が100件以下となり、平成284月から分娩を休止する予定です。



3.三重県における3次産科施設の分娩数の推移


 一方、三重大学、三重中央医療センター、市立四日市病院は、分娩数が年々増加または維持されています。(図3)また、1次産科施設である診療所や個人病院での分娩は、三重県全体で約70%を占めています。個人施設で分娩を中止する施設はいくつかありますが、全体として1次周産期施設での分娩数は一定か微増しています。 すなわち、分娩取り扱いの場所からみたところ、2次周産期施設でのお産が減少し、1次と3次施設における分娩が増加するというように2極化してきたわけです。


4.1次周産期施設を新専門医制度の連携型施設に

 日本専門医機構による新専門医制度が、平成29年度から始まります。現在はその移行期であり、平成29年に向けての準備期間です。われわれの分野である、産婦人科領域専門研修プログラムにおいても、研修施設として「基幹施設」と「連携施設」の2種類で構成されています。それぞれ、症例数、手術数、専門医・指導医の数、論文数など実績と活動状況で規定されています。三重県の場合、三重大学が「基幹施設」となり、私が専門研修プログラム総括責任者となっておりますが、三重大学産婦人科の関連病院、連携病院にお願いして「連携施設」になっていただき、専門研修プログラムを策定しております。この連携施設にも、分娩数が年間100件以上あることという規定があります。したがって、自治体病院などの公的病院のみでは、専門医研修が難しくなってきました。そこで、三重県では、実績のある個人病院である「ヨナハ病院」、「白子クリニック」および「森川病院」の3つの施設に「連携施設」になっていただくように、準備を進めているところです。

 ここで、日本専門医機構による産婦人科領域専門研修プログラムについて、もう少し詳しくお話しいたます。「基幹施設」と「連携施設」による専門研修施設群には、研修の質を維持するために「専門研修プログラム管理委員会」を少なくとも6か月に1度開催することになっています。そして、基幹、連携施設とも以下の報告を行い、改善すべき点を明らかにし、より良い研修プログラムになることが義務付けられているのです。すなわち、1)前年度の診療実績、2)専門研修指導医数および専攻医数、3)前年度の学術活動、4)施設状況(カンファレンス・抄読会の数、文献検索システムなど)、5)サブスペシャルティー領域の専門医数です。したがって、上記の個人病院にも、これらをお願いした次第です。医会の皆様には、「連携施設」選定の理由としてこの様な義務を果たし得る病院と判断したためであり、この点ご理解を賜りたいと存じます。三重大学を基幹施設とする産婦人科専門医制度の優位性については、同門会誌に記載しましたので、ご参照ください。
 

5.勤務医と開業医

 多くの出産、人工妊娠中絶、自費診療を背景に、わが国において19601970年(昭和3545年)の10年間あたりに、産婦人科開業ブームがあったことを、先に述べました。開業医は、いつ起こるかわからない患者の急変や分娩に備えて、長距離の旅行などはほとんどされず、一所懸命に地域の産婦人科医療を支えてこられました。夜間や休日などは、大学医局からの応援を得ている方もありましたが、ほとんどの時間を、患者さんのために尽くしてこられました。しかし、「ライフワークバランス」という言葉が最近現れてきたように、次第にそういった生き方を若者は真似していません。複数人での開業が、近年では主流となっています。日本産婦人科医会に、勤務医部会という部会があるように、開業医と勤務医は明らか分離される職種です。しかし、将来の産婦人科医療の生末を考えると、私は、開業医と勤務医の境を無くしていく方向性が必要と考えています。そのためにも、医局に所属しながら、開業のノウハウを学べる機会を作るべきと、「医局開業」に取り組みました。


6.医局開業に向けて

 この時期、三重大学産婦人科医局で開業するという4つの必要性について以下に述べます。

1)サテライトクリニックとして

 平成275月から、三重大学医学部附属病院の外来棟オープンとともに、高度生殖医療センターを開設いたしました。三重県において、不妊医療の必要性があったのでしょうか、多くの患者さんで賑わっています。月平均で、20件を超す採卵、平均4件の卵管鏡検査などスタッフは多忙を極めています。不妊外来に通われる女性は、勤務されている方が多いため、本来の不妊クリニックは、夕方から夜にかけての夕夜診や、土日の休日診の方が患者さんにとって、より都合が良いのです。大学病院は、この点融通が利かないのが悩みであり、サテライトクリニックを開き、大学病院外来が開いている時間外に診療をし、排卵誘発剤の投与や、卵胞径の計測などフォローアップすることが必要となりました。また、より一般的な女性のヘルスケアに対応するためにも、外来トレーニングとして「実習農園」的存在が必要になってきました。


2)開業医のノウハウを勤務医が習得するため

 私は、卒業後、国立、都道府県立、および市立の病院の勤務医として働いてきましたが、研修医時代から、常々「開業医さんの患者中心医療の徹底と逞しさ」に対してあこがれをもっていました。卒後5年目に、東京オペグループの会長である杉山四郎先生の東京杉並区の病院に、単身見学に行かせていただき、その診療と手術の鮮やかさに驚いたことを思い出します。「東京オペグループに入れてください」とお願いしたところ、「君が開業したらね」と言われました。開業される先生は特に初代では、銀行からの融資、看護師、助産師などのスタッフ集め、労働管理、保険請求など、われわれ勤務医の知らない苦労をやってこられています。これも、すべて大学医局を辞めてから自ら学ばれたわけです。今後、開業医と勤務医の融合を考える上で、医局に所属しながら、このような医師、社会人として重要なことがらを学ぶ必要があると思います。


3)女医の活躍する場として

私は、産婦人科女性医師と呼ぶよりも、産婦人科女医と呼びたいです。女医はJOY(喜び)につながる響きがあるからです。さて、以前の医会報でも述べましたが、産婦人科女医に生きがいをもって生きていくために、自分自身の興味も大切ですが、社会や患者さんが、女医に何を最も求めているかを考えることも大事です。患者さんの多くの声から、産婦人科の患者さんは、外来受診をするとき、最初に診てもらう医師は女医であることを強く望んでいることがわかりました。女性の名前の付いた○○子クリニックが全国的に増えていることからも、ホルモン療法やがん検診といった外来診療において、多くの患者さんは、外来にかかるときに女医を求めて受診しています。また、女医自身に子供ができた場合でも、外来であれば時間的に余裕があり、仕事をつづけていくことができます。しかし、あくまでも我々はプロですので、外来診療においても標準的以上のレベルを目指さなければなりません。向こうからの要請もありましたが、医局長の神元有紀君に、神戸三宮の山辺レディスクリニックに毎週研修にいってもらい、女医外来診療のノウハウを習得してもらっています。

 
4)女性アスリート・女性障がい者アスリート診療のために

 平成27年度から、文部科学研究として「女性障がい者アスリートの現状と問題点について」という研究費を取得し、研究を続けています。これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックでメダルを量産するために設けられた研究で、三重大学は国立スポーツ科学センター(JISS)病院の野瀬さやか先生と協同研究をしています。現在は、神元有紀君をはじめとした医局の女医たちが、パラリンピックのメダリストや車いすバスケット選手など多くの女性障がい者アスリートに、直接会って悩みなどを聞き取り調査しています。われわれは、医師ですので聞き取り調査のみでなく、彼女たちを治療し、より良い成績をとってもらうことが必要であり、その基盤として、全国の女性アスリートの便宜を図るため、診療時間に比較的融通が利く医局運営のクリニックが必要となってきました。

 
7.これまでの経過

前述しました女性障がい者アスリート関連の研究をしている関係から、平成2711月に、津市久居で整形外科「みどりクリニック」を開業されている、瀬戸口芳正先生とお会いする機会を得ました。先生は、偶然にも宮崎県出身であり宮崎医科大学卒業で私の後輩にあたりました。卒業後、スポーツ医学を志して、三重県津市一身田で開業されておられた小山先生に弟子入りされ、三重大学で麻酔科や集中治療を学ばれた後、津市久居の地で開業されました。いまでは、プロ野球選手、プロレーサーやオリンピック選手など、全国から先生の腕を慕って集まり、みどりクリニックで治療し、合宿などを行っています。女性障がい者アスリート研究に協力してもらおうとお会いし、様々なお話しをしている際に、医局開業の話題になりました。先生は、2年前に新しいクリニックを開設したため、これまで10年間使っていた久居駅前のクリニックが空いているとのことで、リースして頂けるとのことでした。

 久居駅隣接のポルタで開業なさっている清水克彦先生に、同年1127日にお会いし、近くで開業するお許しを得、また久居医師会長の上野先生にも許可を得ました。医局の中でも、開業委員会なるものを立ち上げ(池田、奥川、神元、大里、大里朱里)、透明性をもって進めていっております。今後、医会の皆様のお役にたてるよう、進めてまいりますので、ご理解、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

2016/02/10

地域医療構想と周産期医療

 「医療費2025年問題」とは、昭和22年~24年生まれのベビーブーマーが、後期高齢者である75歳になる2025年から国民医療費が現在の2倍近くなるという問題です。高齢者ほど、病院にかかる頻度が多く医療費が多くなる傾向にあるため、本格的高齢者社会となる2025年からは、現在の国民皆保険制度では、財政がパンクする危険があるのです。この解決策の一つとして、地域の病床数を減らすこと、さらに病床を超急性期、急性期、回復期、慢性期に病棟別に区分けするという策です。すでに、各医療圏で「地域医療構想調整会議」は始まっており、例えば津地域では、2014年報告で3,515床あるところを、2025年には訳700床程度減少させ、急性期以上の2,140床を1000床ほど減少させ、多くを回復期や慢性期ベッドに変更するといった具合です。

 また、この地域医療構想を踏まえて、20184月からの診療報酬・介護報酬同時改定と、第7次医療計画の開始がなされるわけです。さらに、その前に行われる2016年の診療報酬改定の動向にも反映されてくると考えられています。例えば、地域包括ケアシステムの推進と医療機能の分化・強化・連携に関する点数が高くなり、また患者重症度・看護必要度が見直しされ、機能係数に加算される、などです。

 難しい話かもしれませんが、わが国の医療形態を一変させる事柄ですので、われわれ母性衛生にかかわるものも熟知し、対策を考える必要があります。

 残念なことに、この地域医療構想において、分娩施設や新生児治療施設などの周産期医療施設のベッドが超急性期か急性期なのか、明確に規定されていません。未曽有の少子化である我が国で、置き忘れられている重要課題です。医療機能を評価は、現在、診療単価でなされており、超急性期ベッドは3000点以上、急性期は600点以上、回復期は225点以上としているのが一般的な指標です。したがって、正常分娩費用は40万円前後ですので、分娩施設ベッドは、急性期以上として良いと思われます。三重県全体の分娩数が15000人を割っており、地域格差が大きくなってきた今日、分娩施設におけるベッド数について再考する時がきていると思います。また、そこで働く、医師、助産師、看護師の配置の問題も長期的展望にたった解決法を考えなければなりません。私的な意見として、所属場所と勤務場所の同一化は限界にきており、助産師出向制度や医師派遣制度の充実が必要と考えております。三重県において、安全・安心に産み育てる環境を作る上で、われわれ三重県母性衛生学会が果たす役割は大きいと思います。

2015/01/05

三重県における生殖医療と三重大学病院における高度生殖医療センターの設立

27 人に 1 人が高度生殖医療によって出生
  日本産科婦人科学会の報告によれば、2012 年(平成 24 年)の体外受精・肺移植(IVF-ET) 等の高度生殖医療(ART)による出生は 37,953 例であり、全出生児の 3.7%、出生時の 27 人に 1 人であるとのことです。1 学級に 1 人は ART による子どもがいることになります。 1999 年(平成 11 年)では、ART による子どもは 100 人に 1 人の割合ですので、少子化の今日、いかに ART が出生数増加に寄与しているかがわかります。こういった時代の要請も あり、三重大学産婦人科は、2015 年 5 月 7 日から三重大学病院の新外来棟がオープンする のに合わせ、同年 4 月から、泌尿器科とともに、高度生殖医療センターを設立します。新 外来棟の 2 階の西側の一角に、5 診が可能な新しい産婦人科外来ができますが、その一部が 問診室、診療室、採卵室、培養室、採精室を備えたセンターとなります。

三重県における生殖医療の歴史
  三重県の生殖医療は、決して他県に比べて後れを取っていません。1983 年(昭和 58 年) に東北大学でわが国初の体外受精児が出生しましたが、その 2 年後に、西山幸男先生は三 重県初の症例に成功されました。また、西修先生(現福井市西ウイミンズクリニック)、森 川文博先生、箕浦博之先生、菅谷健先生、竹内茂人先生、川戸浩明先生、澤村茂樹先生、 濱口元昭先生、井田守先生など、済生会松阪病院、鈴鹿回生病院およびご自身の病院で、 IVF-ET を中心とする高度生殖医療を実践されています。また、1991 年(平成 3 年)7 月 には、第 9 回日本受精着床学会が四日市市文化会館にて、杉山陽一教授のもとで行われて います。さらに、三重大学産科婦人科教室において、生殖内分泌領域の研究も活発であっ た時代があり、成果も学会、誌上発表もなされ、教室員の学位取得テーマにもなっています。

大学に高度生殖医療センターを作る5つの必要性
  それでは、今、なぜ大学において高度生殖医療センターが必要でしょうか?以下に 5 項 目に分けて説明いたします。

1.三重県で唯一の生殖医療専門医の研修施設として
  日本生殖医療学会は、平成 26 年に生殖医療専門医取得規定を改訂しました。その中で、 生殖医療専門医認定施設にて最低 1 年間、研修することが挙げられています。生殖医療専 門医認定施設は、年間最低 100 周期の IVF-ET を行うこと、凍結装置などが完備していること、倫理委員会・安全委員会を設置していることなどが条件となっていますが、現在、 三重県には専門医認定施設が無い状況です。問題は、今後、生殖医療専門医でないと、国 からの補助金を使った不妊症治療が実施できないようになる可能性があることです。現在、 国は少子化対策もあって、「不妊に悩んでいる方」に対する方策として、補助制度を行って います。40 歳未満は年に 6 回補助、40 歳以上は年に 3 回までの補助がでます。今は、生殖 医療専門医のいる施設でなくとも補助金を使用した治療ができますが、将来的には規制を する可能性が高いのです。これは不妊クリニックを営んでおられる医師には極めて大きな 変化で、再度、専門医認定施設での研修が義務付けられる可能性があるのです。したがっ て、その受け皿として三重大学が生殖医療専門医施設となることは必要なことだと思いま す。

2.生殖内分泌学の研究機関として
   大学のもう一つの役割は、生殖内分泌学研究の場としての役割です。例えば、最近の話 題として 腫瘍不妊学(oncofertilty)があります。悪性腫瘍の治療を受ける場合、強い抗癌剤や放射線療法の副作用として生殖機能が廃絶することがありますが、その前に卵巣組織を摘出、凍結保存するなど妊孕性を保存し、来るべき妊娠の希望に答えることが医療のオ プションとなっているのです。こういった倫理的にも複雑な問題を包含した医療は、今後 大学で行って行く必要があると考えています。また、エイジングした卵子に、自己ミトコ ンドリアを注入し、受精能力を高める治療などが可能となっています。その他にも、生殖 内分泌に関する研究は極めて多く、これらを行うことは大学の重要な役割でしょう。

3.産婦人科学における生殖内分泌学の教育機関として
  産婦人科学の領域は広く、周産期学、婦人科腫瘍学の他に重要な領域が生殖内分泌学で す。三重大学産科婦人科における卒前、卒後教育でこの分野は、他の分野に比べて充実し ていないのが現状です。しかし、産婦人科専門医試験で、問題の 3 分の1は生殖内分泌領 域から出題されていますし、けっしておろそかにできません。また、この分野に興味を特 にもつ医学生も沢山います。したがって、県下で、唯一の卒前教育を行っている三重大学 で、生殖内分泌医療を行うべきと考えます。
  また、卵管鏡による閉塞した卵管を通過する手技は、東海地方でも三重大学でしか行っ ておらず、このような先進的な技術を学ぶという卒後教育機関としても大切です。

4.三重県の不妊症治療の約 3 分の 2 が他県に依存
  2012 年には、わが国で 30 万余りの採卵周期(ovuum pick up :OPU)がなされています。 三重県の人口は全国の 1.5%ですので、単純計算して 4500 件の OPU が行われているもの と思います。別の OPU 数の推定として、三重県の出生 1 万 5 千人のうち、ART 出生が 3%、 ART の成功率が 1 周期 10%と仮定しても、4500 件の OPU 数となります。現在、OPU 数の一番多い松阪済生会病院でも年間約 400 件ですので、多く見積もっても三重県全体で 1500 件でしょう。残りの 3000 件の OPU は、名古屋や大阪の不妊専門クリニックに流出し ているものと考えられます 。すなわち、三重県では不妊治療施設が絶対的に少ないのです。 OPU や IVF-ET が数か月待ちの状態なのです。
  また、わが国は、未曽有の少子高齢化がすすんでおり、出生数の増加は最も重要な国策 の一つです。三重県の鈴木英敬知事は、国の少子化対策会議のメンバーであり、全国で唯 一男性不妊症に助成をおこなっておられ、生殖医療に積極的に関わっておられます。した がって、三重県の生殖医療提供施設の絶対的不足を解決するために、大学において OPU、 IVF-ET などを行う意義があると思います。

5.一般不妊専門クリニックが行っていない分野を受け持つ役割
  わが国の細胞や組織の凍結技術は世界一らしいです。受精卵凍結、精子凍結、卵子凍結 の他、卵巣凍結や未熟卵凍結なども可能となっています。これらの凍結保存は、一般不妊 専門クリニックでも行われていますが、長期的な保存責任となれば、公的な場所がより望 まれます。
  また、高血圧、糖尿病、心臓病をはじめとした合併症を持つ女性の不妊治療に関しても、 他科診療の充実した大学の役割があると思います。
  さらに、TESE や夫リンパ球移植などは、決して採算がとれる診療ではありません。こう いった 不採算部門は大学病院が受け持つべき だと考えます。

IVF-JAPAN 理事長、森本義晴先生との出会い
  これらの生殖医療の重要性を教えていただいたのは、IVF-JAPAN 理事長の森本義晴先生 です。私が、前任地、国立循環器病研究センターに在職中に、大阪市で開かれた「多胎を 防止する会」でご一緒になったのを切っ掛けに、循環器病合併患者の生殖医療をお願いし ました。循環器病を持つ女性の中には、30 歳までに妊娠しなければ心機能が妊娠に耐えら れなくなる程に低下してしまう疾患や、移植弁が数年後に劣化してしまうため、弁移植後 早期に妊娠・出産すべき症例があります。そのような女性においては、妊娠をされるのを じっと待っているよりも、生殖補助医療によって確実に妊娠し挙児を得るというオプショ ンを作ることも、また必要ではないかと常々思っていました。もちろん、その危険性など を理解してもらった不妊施設のみにお願いするのが良いと考えていました。森本先生は快 く受けていただき、私が IVF なんばクリニックに伺い、スタッフのみなさんにこの治療の ニーズや循環器病合併症の危険性と管理法について説明し、十分なコンセンサスを得たう えで行いました。その結果、弁膜症治療後、大動脈炎症候群など、3 人の方に、お子さんを 持つという希望をかなえることができました。国循に入院しワルファリン内服からヘパリ ン点滴に切り替え、外出して IVF なんばで採卵後、国循にもどってヘパリン点滴、再度、 IVF なんばにおいて ET を行うなど、貴重な経験をさせていただきました。

高度生殖医療センターの人材確保について
  前沢忠志先生は、私が三重大学に赴任した 2011 年(平成 23 年)9 月 1 日に、ちょうど 紀南病院から大学に帰って、大学院に入学したところでした。解剖学教室で研究する予定 とのことでしたが、本当は済生会松阪病院での経験から、生殖医療がしたいとの希望を聞 きました。それであればと、森本義晴先生に合わせるために IVF なんばに連れて行きまし た。その後、2 年半、IVF‐JAPN でトレーニングを積み、卵管鏡の技術などを習得しまし た。2014 年 4 月から大学で、診療の手順、患者説明書、倫理委員会、料金設定など、今回 の高度生殖医療センターの準備をしてくれいます。2015 年 4 月には、西岡美貴子先生が IVF 大阪のトレーニングを終え、大学病院にもどってきます。
  また、肺細胞士(エンブリオロジスト)は、高度生殖センターにおいて、極めて重要な 役割を担います。この人材確保においても、森本義晴先生に全面的にお世話になり、近畿 大学生物理工学部卒業の、竹内大輝君、東本誠也君を紹介してもらいました。生殖医療認定看護師も採用することができました。
  生殖医療センターの部屋割りや機材選定などは、済生会松阪病院の生殖医療センターの 立ち上げに関わられた、現、三重大学中央検査部技師長の森本誠さんに大きな役割を果た していただきました。
   以上、高度生殖医療センター設立に当たって最も重要な人材の問題は、本当に人の縁や 知り合うタイミングの大切さを感じざるを得ません。ありがたいことだと思っています。

生殖医療センターのオープン化
  三重大学病院における高度生殖医療センターが果たすべき、教育、研究、診療面での役 割について述べてきましたが、大学病院での診療の場は、大学で勤務をしているスタッフ のみのものでは無いと強く思います。私の専門の周産期医療で、分娩のオープンシステム というものがあります。それと同様に、生殖医療センターもオープン化すべきと考えてい ます。例えば、地域で開業されている先生方の患者さまの治療を、大学病院で、設備を使 ってご自身で行なっていただくというのはいかがでしょうか?合併症を持つ症例の採卵、 TESE が必要な症例、未熟卵培養などが対象となると思います。お支払する診療報酬やトラ ブル時の問題などあるでしょうが、努力すれば解決できるものと思っています。皆さんで 多くのアイデアをだしながら、三重県の産婦人科医全体で育てていただきたいと思ってお りますので、よろしくお願いいたします。

2014/08/16

なぜ、桑名市総合医療センターは地域周産期医療センターでなければいけないのか?

  桑名は名古屋のベッドタウンとして三重県の中で唯一人口が増えていますが、医療圏と しては桑名保健所管轄に含まれ桑名市、いなべ市、木曾岬町、東員町、菰野町、旭町、川 越町で、人口 28 万人、出生数約 2500 人です。周産期医療提供体制に関しては、産婦人科 施設と医師数が県内一不足 しており、桑名医療圏から分娩の流出が年々増加し 400 以上 にもなり、特に 愛知県には 100 以上が流出 していることが明らかとなりました(図1、表 2)。詳しくは、平成 24 年度、三重県産婦人科医報で、石川薫先生が「三重県北勢保健医 療圏桑名地域の周産期医療提供体制の現状と将来構想について」の論文が参考になります。 同論文著者の石川薫先生は、将来構想として、①新生児科も専門領域とする常勤産科医師 4 ~5 名を含む、地域周産期医療センターの設立 、あるいは②桑名市総合医療センターは、 一次施設機能にとどめる 、の2つの案を提示されています。後者の方策の一つとして、院 内にテナントとして独立採算の開業などとすることも念頭にいれたらどうかと提案されて います。私は、①の選択しかないと考えており、以下にその理由を述べ、現在進行してい るプロジェクトをご紹介します。
 


1.桑名市総合医療センター(桑名市民病院と山本総合病院の合併)
  平成 24 年 4 月に、桑名市民病院と山本総合病院が合併し、地方独立行政法人桑名市総合 医療センターとなることが、正式に合意、締結されました。桑名市民病院は、昭和 41 年に 開院した自治体病院であり、一方、山本総合病院は、昭和 20 年にその元の山本病院として 開院した個人病院です。三重県も交付金を拠出することで援助し、我が国で初めての官民 合併病院 となりました。私が三重大学に赴任いたしました平成 23 年には、桑名市民病院に は伊東雅純先生お一人、山本総合病院には須藤眞人先生、杉原拓先生のお二人が診療に当 たられていました。分娩は、山本総合病院のみ扱っており、年間 130~40 例前後、手術を 50~60 件をしておられましたが、桑名市民病院は分娩を取り扱っておらず、外来のみでし た。したがって、この 2 病院の統合は、産婦人科の集約化という意味で、三重県の産婦人 科医療全体にとっても、理にかなったものでした。

2.石川薫先生と桑名地域医療再生学講座
  桑名地区は将来出生数が増加する見込みがあるにも関わらず、産婦人科医師の最も不足 している地域であることが懸念されていましたので、三重大学に赴任当時から、まず北勢 地域の医師の増加が最重要課題の一つであると考えておりました。その時、以前から親交 のありました名古屋第一日赤産婦人科部長の石川薫先生が退職され、再就職されておられ ないことを伺いました。石川先生は、愛知県の周産期医療体制を、全国でも最も機能する システムに、中心となって立ち上げた実績をお持ちであり、この問題に取り組んでいただ けるものと考えました。三重県、桑名市、鈴鹿医療科学大学、そして、われわれの同門会 に協力していただき、平成 24 年 7 月に、鈴鹿医療科学大学において、北勢地域、特に桑名 地域の周産期医療の再生のため、「桑名地域医療再生医学講座」を、桑名市からの寄付講座 として開設 することができました。現在、石川先生は、全国の周産期医療体制の分析と提言をされる傍ら、胎児心エコー教室などの勉強会や講演会を開くなど、同地区の産婦人科 医療の活性化に大きな力となっていただいています。

3.桑名市総合医療センターの産婦人科が地域周産期センターでなければならない理由
   国は、1000 出生当たり、2-3 床の NICU(狭義)が適切であると推奨しています。以前 は、2 床でしたが、重症新生児ケアが多様化したことと、低出生児生存率が飛躍的に改善し たことを受けて、最近では 3 床となっています。出生数が約 7500 ある北勢では 22 床必要 です。しかし、平成 26 年にわが県で第 2 番目の総合周産期母子医療センターとなった市立 四日市病院に 9 床あり、同じく四日市市にある三重県立総合医療センターに 6 床と増床さ れたものの、合計 15 床と、目標の 22 床には、未だ足りません。したがって、あと少なく とも 6 床は必要なのです 。地理的状況を考えてみても、四日市市に増床するよりも、出産 数の増加が予想される桑名地域に 6 床の NICU を稼働する方が、より住民の利便性が良い と考えています。
  初めに述べました桑名医療圏からの 400 分娩の流出の内、約 300 は四日市の 2 病院がリ スクの受け皿ですが、あとの 100 分娩の流出は、木曾川を越えて弥富市にある海南病院を はじめ、名古屋市の病院が受け皿となってもらっている現状です。この場合、桑名市総合 医療センターに一次となる設備を増設しても、現状は打開できないのです。愛知県にお願 いするなら別ですが、三重県でリスクの受け皿を、責任もって作っていくには、桑名に地 域周産期母子医療センターを設立する必要があるのです 。

4.周産期センターと佐々木 禎仁 先生
  桑名市総合医療センターは、平成 27 年 4 月に新築されることを受けて、平成 24 年から 周産期センターの設計などが進んでいました。三重大学産婦人科は、最初から充実した地 域周産期母子医療センターの必要性を主張していたため、この設計にも関わらせていただ いていましたが、地域交付金の増額にも関わらず、建築資材の高騰や請け負う建築業者不 在のため、平成 26 年夏現在、新病院建設の見込みが立っていない状態です。しかし、旧山 本総合病院、すなわち現在の桑名市総合東医療センター3 階にある産婦人科病棟と外来は、 現状でも周産期センターと成り得る広いスペースと、優秀なナーススタッフが存在するこ とがわかりました。したがって、新築の有無に関わらず、センター化を進めていけるので はと思っていました。
  世の中は、このような時に、ヒトを授けてくれるものです。平成 20 年から約 2 年間国立 循環器病センター周産期・婦人科で一緒に周産期医療と新生児医療をやっていた、佐々木 禎仁先生が、平成 24 年 4 月から桑名市東総合医療センターに赴任 してくれました。彼は、 国循勤務の後に、滋賀県の総合周産期母子医療センターである大津日赤病院新生児科で 2 年間新生児医療を積んできたベテランです。早速、赴任して間もない 5 月に生まれた 26 週 1000gの未熟児を自分一人で見事に育て挙げました。(新聞記事参照)ナーススタッフの教育だけでなく、連日の当直で本当に大変でしたが、頑張ってくれました。これで、病棟全 体の士気があがりました。平成 26 年 10 月からは、さらに新生児医療もできる医師 2 人(田 中博明先生、田中佳代先生)の赴任が決まっており、周産期センター機能を強化してくれ るものと期待しています。


5.三重大学、市立四日市病院、県立総合医療センターからの応援
  桑名市総合医療センターが周産期センターとして機能するためには、医師のみでなく、 助産師、看護師の皆さんの充実、医療機器の整備、それから最も重要なことですが、周囲 医療機関からの信頼を得ることが必要です。そのために、桑名市総合医療センター理事長 の竹田寛先生はじめ、多くのご支援を得ている ところです。これに対して、「我々の本気度」を示さなければなりません。三重大学産科婦人科学教室はもちろんのこと、市立四日市病 院と県立総合医療センターの北勢の基幹病院から、毎水曜日の外来応援を現在行っており、 それ以外にも手術手伝いなどを随時しております。市立四日市病院と県総産婦人科の相互 援助システムは平成 24 年から 2 年以上行っていただき、月に 3-4 人の相互の当直、手術 応援が続いていますので、今回の桑名への派遣はスムーズにスタートできました。

6.桑名の有利性
  桑名地域周産期医療センターを設立させる上で困難は多数ありますが、有利な点もあり ます。桑名は医師を集めやすいということです。桑名市総合医療センター設立以来、同セ ンターへの初期研修医数は順調に伸びてきています。平成 27 年度は初期研修医枠が 9 名で すが、その倍ぐらいの人数が応募しています。三重大学卒業が中心ですが、名古屋の医科 大学からも応募があります。三重大学医学部の約 4 分の 1 は愛知県出身の学生ですが、彼 らに聞きましても、桑名市であれば名古屋から通えるし、就職しても良いと答えることが 多いです。したがって、最も重要な要因である 医師確保の面で、桑名は有利性を持つ ので す。

7.産婦人科医が新生児医療を勉強すること
   わが国において、新生児医療はほとんど小児科医によって行われています。しかし、新 生児科医の少ない地域では、産婦人科医が中心となっているところもあります。鹿児島県、 千葉県の一部などがそうですが、私が教育を受けました宮崎県もその一つです。私は、10 年以上、宮崎大学周産母子センター新生児集中治療部(NICU)のトップとして、教育・診療・ 研究を行ってきました。小児科とは、フォローアップや心臓病、代謝病といった特殊疾患 の診療などで、非常に良い協力体制を取ってきました。同センターは宮崎県の周産期医療 の「最後の砦」であったため、私の時代に、他院からの母体搬送、新生児搬送を断ったこ とは一度としてありませんでした。
   しかし、わたしは、三重県が、宮崎県のように産婦人科医のみが新生児医療を行うよう になることが良いとは全く思っていません。ただ、産婦人科医が、新生児医療を勉強する ことは、周産期専門医となるためには必須事項 だと思っています。その理由は、一言でい えば、小児科医療の中で、新生児医療は「選択科目」ですが、産科医療のなかでは、「必須科目」だからです。母体が児を娩出できなければ生命の危機に瀕するときに、新生児医療 が直ちに始められなければ、母体の生命も失うこともあり得るのです。平成 18 年、奈良県 大淀病院から、脳出血の産婦さんが搬送依頼があり、私たちの国立循環器病センターが担 当しましたが、後から 19 番目に搬送依頼をされたと聞きました。このとき、母体搬送を受 けられたのも、われわれ自身が新生児医療を出来たからだと思っています。18 の搬送が受 けられなかった施設で、NICU 事情の理由で断った施設も多かったからです。実際、国立 循環器病センターで出生した児は、アシドーシスに陥っており、胎便吸引症候群にて 1 日間、気管挿管の上、人工呼吸管理を行いました。
  また、周産期専門医は、自分で行った産科医療のアウトカムを、周産期死亡などの短期 的指標のみでなく、1 歳半、3 歳、6 歳といった長期予後を目標にして、診療方法を考えて いかなければなりません。たとえば、一般の産婦人科医は、切迫早産や前期破水で、簡単 に抗生物質を使ってしまう傾向にあります。しかし、新生児を取り扱う医師にとって、出 生前に使用された抗生物質によって起炎菌がマスクされてしまって、抗生物質の使い方が スムーズにいかないことも稀ではないのです。安易な出生前抗生物質が長期予後を悪くし ている可能性があるのです。こういった感覚を磨くためにも、新生児医療をどこかでフル でやる時期が、周産期医に求められると考えています。

おわりに
  以上、桑名市総合医療センターが、地域周産期医療センターである必要性を述べてきま した。このプロジェクトが成功することが、わが国における周産期医療過疎を解決する一 つのモデルとなる可能性があると思っております。皆さんのご協力をお願いいたします。

2014/07/01

榊原記念病院における産婦人科開設と、「心臓病と妊娠」の研究

はじめに
  2013 年(平成 25 年)4 月から、東京府中市の榊原記念病院に産婦人科を三重大学の関連 病院として開設いたしました。320 床の循環器病専門センター5 階の 429m2 と広いスペー スに、15 床の病室と、陣痛分娩開腹室(LDR)2 室、手術室 1 室がオープンしました。ま た、隣接したフロアに、新生児集中治療室(NICU)もできあがりました。宮崎大学の後輩 で、三重大学医局員である桂木真司先生が部長として赴任し、1 年以上の間、看護師確保、 周辺医療へのあいさつ、診療マニュアルの整備など、開設準備に奔走してくれました。そ の間、三重大学から鈴木僚先生と紀平力先生が加わり、ホームページの立ち上げなど頑張 ってくれました。実際の診療は、平成 26 年 5 月から開始され、6 月には先天性心疾患合併 の胎児の分娩 3 件と、心疾患合併妊婦の分娩 2 件を終えました。この様な医療に、われわ れ三重大学産科婦人科教室が積極的に関与していく必要性について、以下に述べたいと思 います。

心臓病合併妊娠は意外に多い
  心臓と血管の異常を合併した妊娠の頻度はおよそ 100 妊娠に 1 例といわれ、稀な合併症 ではありません。わが国で年間約 1 万例の症例があると推定されます。私が以前勤めてお りました国立循環器病研究センターの周産期・婦人科でのデータですが、約 3 分の 1 が先 天性心疾患、約 3 分の 1 が不整脈、その他といった頻度です。これら全てを、国循のよう な高度専門施設でカバーすることは不可能ですし、ハイリスクな重症例を一般産婦人科で 管理することも現実的ではありません。したがって、症例のリスク度に応じた診療場所の 指針が必要です。私も関与しましたが、日本循環器学会が 2010 年に改定した「心疾患患者 の妊娠・出産の適応、管理に関するガイドライン」がありますが、診療の場所や連携を具 体的に示したものではありません。
   現在わが国で、年間 40~50 例発生している妊産婦死亡の死因のなかで、心臓病と血管異 常は約 12%を占めており、重要です。年間に 5,6 例の妊産婦死亡をゼロにするために、三重大学が中心となって努力しようと思います。

胎児心臓病も意外に多い
  胎児が心臓病の頻度も、約 100 妊娠に 1 例であり、臓器別の先天異常の中では最も多い ものです。胎児心臓病の診断と治療を研究する学会は、「日本胎児心臓病学会」があります。 われわれ三重大学産科婦人科教室も、2013 年 2 月に津市で第 19 回学術集会を開催し、約 400 名のもの方々に参加していただきました。この様な学会活動と超音波機器の進歩によっ て、わが国では、胎児の心構造異常の 4 割程度が出生前診断されるようになりました。以前は、出生前診断として、単心室や左心低形成といった4腔断面像で異常がある疾患が主でしたが、現在は大血管転位、大動脈縮窄などの流出路異常が多く診断されるようになり、 さらに総肺静脈還流異常もどのようにしたら見つかるかなどが議論されています。
  また胎児不整脈に関しても、「胎児頻脈性不整脈に対する経胎盤的抗不整脈薬投与に関す る臨床試験」を高度医療として、久留米大学小児科 前野泰樹先生とともに主任研究者と して、全国的研究を進めさせていただいています。胎児心臓の問題も、意外と症例が多い ことがわかります。

三重大学は、「心臓病と妊娠」に関する診療と研究をリードするのに適した施設
  三重大学に赴任した際、三重大学における循環器病研究が極めて充実していることを知 りました。三重大学医学部の循環器内科は、伊藤正明教授を中心に、静脈血栓塞栓症、肺 高血圧症の分野で日本をリードされています。放射線医学科の佐久間肇教授は、心臓 MRI の世界的権威です。また、心臓血管外科は、新保教授を中心に、今では標準術式となった、 左心低形成の両側肺動脈バンディングを開発されました。小児循環器もまた、三谷先生は じめ、小児肺高血圧などで業績を多々出しておられます。さらに、検査医学は、血栓止血 の分野で、遺伝学的診断を高度医療として行っておられるなど、わが国のオピニオンリー ダーです。このように、「心臓病と妊娠」の診療と研究を行うために、理想的な専門家の方々 に囲まれているのです。
   したがって、国立循環器病研究センターで得た、知識、技術を、後進に伝え、三重大学 の産科婦人科教室の主要テーマとして「心臓病と妊娠」をすることができるものと考えて います。

榊原記念病院における産婦人科開設の経緯
  循環器病専門センターの公益財団法人日本心臓血圧研究振興会付属榊原記念病院の中に 産婦人科を開設することは、私がまだ国立循環器病研究センターに在職中の 2010 年に、新 たに榊原記念病院の院長に就任された友池仁暢先生から要請されました。友池先生は、国 循勤務時代に、国循院長として大変お世話になった先生です。国循での、周産期・婦人科 の活躍を、関東でも再現できないかと期待されたわけです。同病院の定例勉強会に招かれ、 職員や地域の方を前に、1 時間ほど、国循での取り組みをお話ししました。榊原記念病院が ある多摩地区における「心臓病の子供を守る会」の会長さんから、「心臓病があっても妊娠・ 出産できる病院に、この病院をしてください」と講演後に言われたのが印象的でした。当 時、国循でも十数人と医局員は増加していましたが、まだまだ責任をもって人材を派遣す る余裕もなく、「将来考えておきます」とお答えしたのみでした。ところが、その後も積極 的な勧誘を受けました。友池院長のみでなく、数人の方々からでした。その中でも、循環 器小児科部長の朴仁三先生が、宮崎医科大学の私の一つ下の後輩であり、副院長で小児心臓外科の高橋幸宏先生は、宮崎県延岡市のご出身であることがわかり、ご縁を感じており ました。高橋先生は、小児心臓の手術を年回 200 例以上行っている外科医 4 人の会“two hundreders の会”のメンバーですが、「ぜひ胎児心臓病の分娩が榊原でできるように」と要 望されました。
  三重大学に赴任後、人材も増えてきたときに、実現可能と判断しました。そして上述し たように、2013 年 4 月に桂木真司先生が部長として赴任し、準備体制となりました。

東京に関連病院を持つ意義
  東京にある榊原記念病院に、地方大学である三重大学産科婦人科から人材派遣をする意 義を述べたいと思います。まず、三重大学医学部の卒業生の多くが、一度は東京で医療を 学びたいという希望が少なからずあることです。「都会志向」といっては、それまでですが、 最も人が集まる東京で、何か新しいものを身につけ、新しい自分になれるのを憧れる気持 ちは、若者独特の向上心の表れではないでしょうか?また、実際、国の行く末を決める会、 学会でもそうですが、重要なことを決める会が東京に集中していることも事実です。2020 年に東京オリンピックが開催されることが決まり、これからますます交通、流通、文化、 政治など全てに渡って東京に活気がでてくることが予想されます。
   われわれ三重県に住んでいても、常に東京は意識すべき場所です。三重県庁も同様の考 えがあり、2013 年(平成 25 年)に三重県東京事務所、通称「三重テラス」が東京日本橋 にオープンしました。かつての三井高利を代表とする伊勢商人は東京に積極的に進出しま したし、現在、三重ゆかりの企業が日本橋には多くあります。鳥羽の、御木本幸吉も、1896 年(明治 29 年)に人工真珠の養殖に成功し特許を取得しましたが、たった 3 年後に、東京 に御木本真珠店を開設しています。
  このような理由で、三重大学産科婦人科学教室も「東京に出店を出す」ことは、教室の 発展のために悪い事ではないと思っています。

今後に向けて
  インフラは整いましたが、「心臓病と妊娠」ならば三重大学産科婦人科学教室だと世間か ら認めていただくためにも、この分野にフォーカスをあてた診療、教育、研究が大事にな ってきます。同門会の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

2014/05/02

池ノ上先生の考え方と言葉

  池ノ上先生は私にとりましても、人生の恩師であります。平成 3 年 1 月の教授赴任時、 私は病棟医長や産科医療担当であったこともあり、直接指導を受け、また宮崎医科大学周 産期母子医療センターをはじめ、多くの事業の立ち上げを、近くで伴に体験させていただ きました。平成 17 年に宮崎を離れ、国立循環器病センターに赴任し、さらに平成 23 年か らは三重大学産科婦人科に移りましたが、池ノ上先生が宮崎で初期にどのように為された かを直に知っている私には、ある程度の自信をもって物事に当たることができました。国 循のサマーセミナーは、ひむかセミナー、朝のカンファレンス、テレビカンファレンスな ども池ノ上先生が行われたことを、忠実に模倣してきました。
  また、先生の言葉、セリフなど、メモをとりながら、自分なりに咀嚼し、現在も指導者 として使わせていただいています。以下に、その代表的な 10 の言葉を述べたいと思います。

① 「周産期は草野球、ヒーローはいらない」
  投手や野手が専属のプロ野球とちがって、集 まった人の中で投手などを決めていく草野球に、周産期医療を例えられました。宮崎大 学の入局者は、産科、新生児、婦人科の 3 つを、かなりの年月に渡ってローテーション します。したがって、だれでも新生児蘇生はでき、基礎的な手術はできます。すべての ポジションが一応守れる医師ができ、すべての緊急時に対応できます。
② 「主治医の体力の切れ目が、患者の生命の切れ目ではいけない」
  主治医は患者家族など の対外的な説明には当たるものの、患者のすべての治療を受け持つことは不可能であり、 チーム医療体制を一般化されました。
③ 「周産期医療チームと戦闘チーム」
  現場で治療にあたるときのチーム医療の在り方を述 べられた言葉で、コマンダーを決めて対応するが、コマンダーが亡くなった場合、次の コマンダーが直ちに代わりにリーダーシップをとれるようなチームを戦闘チームに例 えられました。
④ 「搬送依頼は絶対断らない、搬送結果は直ちに搬送元に報告」
  一次施設の信頼を得るた めには、これに尽きることを知らされました。
⑤ 「最大瞬間風速をあげる人員集約」
  周産期医療は、治療の局面によって 10 人以上の多 数の人員を要します。当該施設の常勤医に加え、応援の医師が駆けつけ治療を安全に行 うことの重要性を強調した言葉です。
⑥ 「行政は後からついてくる」
  あれが無いとできない、これが無いとできないなどと言わず、現在、利用できるところから始めることが、立ち上げの最大のコツだと強調されま した。行政や病院に施設や物を要求する前に、結果を出すことの重要性です。
⑦ 「君たちはこんな難しい医療ができるようになったのだ」
  治療した新生児が亡くなった 時に言われた言葉で、ガッカリしている我々を奮い立たせていただきました。そのポジ ティブシンキングに皆がついていきました。
⑧ 「周産期は、やるか、やらないか迷ったら、やる」
  これは、何の根拠もないのですが、 クリアで、私も迷った時には、この言葉を思い出しております。 ⑨ 「朝日を拝む人あれど、夕日を拝む人はなし(串木野さのさ節)」
  人が逆境になったと きでも、常に同じように接される姿は、常に軸をぶらさない先生らしく、よくこのセリ フを言っておられました。
⑩ 「中間データをもってきなさい」
  論文や発表でも、きれいなグラフや整った図を持って いくと、このように言われました。その過程が大事であり、このことは、診療の報告で も、結果がでてからではなく、治療行為を行う前の報告の重要性です。例えば、手術が うまくいって報告するよりも、このような手術を行うという事前の報告を心がけるよう に教育されました。

   以上ですが、池ノ上先生から学んだ数々の事柄、それを象徴する言葉は、まだまだあり、 今後も、さらに多くメモができるものと思います。これからも健康に気を付けられて、ご 指導をお願いいたします。

2014/03/18

産婦人科女性医師フレンドリーな三重県を目指して

  三重大学医学部産科婦人科学教室同門会の先生方には、常日頃から、患者さまのご紹介や、医局のご支援など、大変お世話になっており、感謝申し上げます。来年には、我々の教室の開講70周年となり、祈念式典などを計画いたしており、ご出席いただきますよう、お願いいたします。さて今回は、三重県における産婦人科の女性医師に関する話題を述べたいと思います。

1.女性産婦人科医師の増加
  図1は、平成22年(2010年)に国がまとめました産婦人科医の年齢階級別医師数の男女比です。30歳代前半の62.7%から、30歳代後半46.7%、40歳代前半32.6%、40歳代後半22.5%と低下しています。最近の新規産婦人科医の60%~70%が女性医師です。
  産婦人科は、女性医師が活き活きと働くことができ、キャリアを積める診療科であるため、当然の傾向でしょう。産婦人科女性医師としてのメリットは、月経異常、思春期の異常、更年期や避妊など、患者さんが男性医師には話し難い相談を受けやすいことがあります。三重県においても、開業されている女性医師は皆、たくさん患者さんが集まっていますし、大学でも女性医師の外来は朝から夕方までビッチシ、予約がいっぱいです。
  今後、産婦人科診療にとって、女性医師が増加してくることは、火を見るよりも明らかです。将来、産婦人科全体の3分の2は女性となることでしょう。これは、産婦人科医療全体の構造上の大きな変化であり、避けて通れない問題であり、われわれも女性医師のキャリア支援について、どう取り組んでいくかを皆で考えないといけないでしょう。
図1.全国の年代別産婦人科医師数
図2 三重県の年代別産婦人科医師数

2.三重県は女性の県です
  図2は、三重県の産婦人科医で同様なグラフを書いたものです(平成25 年現在)。若い世代の産婦人科医が少ないことがまず目立ちますが、40 代後半でも女性医師はほぼ50%であり、全国に比べて多いことがわかります。三重県の40 代女性が頑張っているのです。
  三重県の女性は、まじめで働き者が多い傾向にあると思います。私が長年住んでいました宮崎県の女性も働き者ですが、こちらは男性があまり働かないために必然的に働かなければならなくなったようです。一方、三重県では自分自身のキャリアを積むために働いている女性が多いように思います。それを裏付けるデータとして、夫への小遣いの金額があります。三重県は大分県とともにトップで、ひと月平均17 万円らしいです。それに比べて、宮崎県は鳥取県、島根県とともに最下位近くでひと月平均10 万円です。夫の働きが悪いと、小遣いも少なくなるのではないでしょうか?
  三重県にキャリア志向の女性が多いことは、多くの女性有名人がでていることから伺えます。レスリングの吉田沙保里、マラソンの野口みずき、ビーチバレーの浅尾美和、バドミントンの小椋久美子、アナウンサーの楠田枝里子など、皆キャリアを開花させておられます。古くは、伊勢神宮の天照大神。昨年は式年遷宮がありましたが、これを始められたのが持統天皇で女性であり、この県の女性の活躍は伝統でしょうか。
  キャリアを持つことは、独立心や自信を持つことに繋がります。最近行われた、補正下着会社ダイアナ社の調査によれば、20~60 歳の三重県女性は全国一プロポーションが良いという結果がでました。これはプロポーションインデックスというのがあって、[ウエスト+(左太もも周囲+右太もも周囲‐ヒップ-(トップバスト-アンダーバスト)]÷身長で計算され、低いほどプロポーションが良い値らしいです。
20万人以上の体型データから、三重県女性は、37.7で1位でした。2位は高知38.5、で最下位は徳島県で43.2でした。自信の表れでしょうか、三重県女性は「夫の浮気を許せない」ナンバー1であるとのことです。ケンミンまるごと大調査という3万人以上のアンケート調査によるものですが、キャリア志向で独立心、自信があり、プライドがあるという女性像が見えてきます。
  結論として、三重県女性は、産婦人科医としてのキャリアを積むための背景が十分であるということです。

 3.女性が産婦人科医を続けていく困難さと対策
  医師以外の職種でもそうですが、結婚、出産、育児は女性がキャリアを中断ないし縮小しなければならない原因となっています。産婦人科医は、夜間など時間外が多い、緊急度が高い疾患があるなど、他科と比べても、ハードな勤務であることは否めません。最近の、産婦人科医師不足の折、当直の回数などが多い、などハードさは一段と高くなり、さらに離職が多くなるという「悪循環」に陥り、女性医師にとっても、産婦人科は敬遠されることも多くみられます。
  日本産科婦人科学会の調査でも、女性医師が離職、休職する率は多いことが報告されています。これに対して、以下のような、待遇改善の施策が挙げられています。①当直勤務の緩和、②当直翌日の勤務の緩和、③分娩手当、待機手当の増額、④妊娠中・育児中の勤務の緩和、⑤フレックスや時短勤務の導入、⑥チーム医療の導入による交代性、⑦利用可能な院内保育所の設置などです。
  確かに、これらのハード面は極めて重要であり、三重大学でも幾つかを採用し、キャリアを続けるために有効であると実感しています。

4.三重県、三重大学における産婦人科女性医師フレンドリーな対策
  しかし、これらハード面のみでなく、ソフト面の充実も重要であり、産婦人科女性医師フレンドリー三重県、三重大学を目指した対策を述べていきたいと思います。結論から申しますと、いま「正解」を持ち合わせていません。ただ、原則、勤務医は子供ができたら、比較的人的余裕のある大学に集まるか、三重県の中で「ギネの女医たちネットワーク」を作って、悩みの共有と団結した主張をして頂きたいと思っています。
  昨年から、大学では神元有紀講師に人事担当の医局長になってもらいました。彼女は、2人のお子さんを育てながら、当直、外来、卒前卒後教育、研究を立派にこなしてくれています。日産婦の最優秀論文賞も受賞しました。まさに、ロールモデルであり、女性の多くなった医局の人事担当には相応しいと考えたからです。
  また、これまでの女性医師に関する議論の中で、院内保育や分娩手当などのハード面は頻繁に述べられますが、女性医師が何を行うかというソフト面はあまり語られません。もちろん、専門性に関しては、それぞれの医師の興味やモチベーションが重要ですが、育児をしながらも続けられやすいものと続けにくいものは確かにあると思います。少し、この点で考えていることを述べさせていただきます。

5.レイバリスト
  レイバリスト(laborist)とは、米国で最近新しく活用されている産婦人科医のあり方です。米国では最近90%の産婦人科医は女性であり、中には子供を持つ女性も多くいます。そのため、女性のクオリティー・オブ・ライフの改善のため、分娩だけ行う職業すなわちレイバリストという就業形態ができているのです。看護師さんのように交代性で通常の医師よりも少ない時間となるため、多くの時間が医業以外のことに使えます。最近では、レイバリストを採用した病院において、帝王切開率の減少や出産予後の改善などが報告されており、米国産婦人科学会も推奨しています。わが国も米国の10年、後を追っているのであれば、参考にしなければならないと考え、実際のレイバリストをめぐる実情を研究してきたもらうため、北野裕子先生に、全米でもトップクラスのカルフォルニア大学サンフランシスコ大学に10日間程、視察に行ってもらいました。 詳しくは、北野先生からの報告を今後参考にしてください。

6.腹腔鏡手術
  腹腔鏡手術は近年、産婦人科領域でも全国的に症例数が多くなってきており、特殊な手術というよりは、一般的な産婦人科手術になってきました。もはや、子宮外妊娠や良性卵巣腫瘍では、開腹よりも腹腔鏡手術の方が第一選択であることが常識です。まさに、手術革命です。ただし、開腹術に比べて、基礎トレーニング、すなわち運針や縫合結紮などに要する時間が長くなります。また、特殊な視野と鉗子の動きに慣れる必要があり、ラーニングカーブも、開腹術に比べてゆっくりです。一般的に、実際の症例に当たる前に、練習ボックスを使って、日夜トレーニングを積まなければなりません。この練習は、自宅でもできるため、例えば産休中とか育休中にも出来得ると思います。女性特有の繊細さをもってすれば、腹腔鏡手術は女性医師に向いているのではないでしょうか?

  以上、産婦人科女性医師に関する私見を述べてきましたが、皆さんでアイデアを出し合っていただき、良い方策を考え、トライアル・アンド・エラーを繰り返しながら、一人でも充実した産婦人科のキャリアが積めるよう頑張ってもらいたいと思います。

2014/03/03

三重県における産婦人科学の研究について

  三重大学医学部産科婦人科学教室に赴任いたしまして、早 2 年余りが経ちました。三重 県産婦人科医会の先生方には、会長の森川文博先生をはじめ、大変お世話になっておりま す。学会と医会は車の両輪といいますが、三重県は「一輪車」であるごとく、全国一、ま とまりの良い医会・学会であり、ありがたいことだと常々感謝しております。
  平成 25 年 10 月から、三重大学医学部付属病院は、竹田寛先生から伊藤正明先生に病院 長が交代されました。私ごとですが、伊藤先生からご指名を受け、診療担当副病院長とし て、現在、病院執行業務に携わっております。業務の主なものは、平成 27 年 7 月の病院機 能評価受診に向けての準備、看護師確保対策、病院職員教育などです。より多忙となりま したが、三重大学出身でない私として、三重大学病院内で働く方と仕組みを覚えるために 良い機会であり、楽しく仕事をさせていただいております。
  三重県に新規参入してくれる産婦人科医師も、おかげさまで多く、当初の目標を達成で きていますが、まだまだ不足しているのが現状です。入局してくれる医局員は、妊娠管理、 分娩、手術など、産婦人科医としての基礎的な専門研修を毎日行っており、日に日に、目 に見えて上達がわかり、嬉しく感じております。それぞれ、充実したキャリアが積めるよ うに、指導スタッフも努力してくれています。
  赴任してから、まず臨床の充実をと考え、研究のことはあまり彼らに強調しなかったの ですが、3 年目となりますので、私自身が研究について考えていることを、本誌を借りて述 べさせていただきます。

1. 研究は臨床の疑問や願望を解決することを目指すもの
  産婦人科学という学問は、やはり臨床医学、応用医学ですので、常に患者さんが良くなったり、疾患が予防できたりすることが大切です。臨床を一生懸命やっていると、日々、「このやり方でいいのか、別のやり方があるのではないか?」とか、たくさんの疑問が湧き起 こってきます。また、患者さんが常に良くなるわけではなく、現在のベストの医療を尽く しても、直せない方がおられます。医師としては、無力感といいますか、「悔しい思い」を し、良くしたいという願望がでてきます。この臨床の疑問と願望(clinical questions and wishes)が研究をめざす動機となるべきです。そして、研究で得た結果、(結果が得られる ことばかりでは無いのですが)を、今度は臨床で試してみるという段階があります。そし て、また臨床から研究です。これを、英語では”Bench to Bedside, Bedside to Bench”と言うらしいです。この臨床―研究サイクルが、順調に回りだすと、臨床も研究もやりがいのある、「面白いもの」になります。産婦人科医になって良かったと思うようになってきます。
図1

  通常、自分の施設やグループだけで、すべての臨床―研究サイクルは回せません。した がって、先端を走っているグループに入れてもらうか、共同で行うことになります。この ため、常日頃から、アンテナを高くして、この当たりの情報を得なければなりません。そ の時に重要なことは、ギブ・アンド・テイクの状態にならなければならず、ギブ、ギブと いっている医師や研究者には、なかなか良い協力体制が作れません。したがって、「自分の、あるいは、自分の施設が、何をテイクしてもらうか」を考えた戦略を常に考えなければな らないと思います。

2.自分の興味か運命か?
   それでは、どのように自分の得意種目、自分の専門性、自分のライフワークを作ってい くのでしょうか。私の場合、専門は周産期学で、胎児・新生児の脳障害と胎児心拍数モニ タリングがライフワークです。しかし、医師になって 6 年目に大阪から宮崎に移ったとき には、宮崎にはまだ馴染みのなかった膣式手術で一旗揚げようとして、砕石位のセットを 自費購入しました。手術で成功しようとしたのです。しかし、宮崎大学で、池ノ上克教授 に出会ってから、周産期学にのめりこみ、池ノ上先生ご自身のテーマをいただいて、研究 させてもらいました。このように、当初の自分の興味・計画と、運命といいますか大きな 人生の流れ、人との巡り会いの、どちらに従うかは、本当に悩むところです。ただ、自分 自身は極めてルーズな性格ですので、当初の自分の興味を貫くために人生の流れに逆らっ ても良い事が無いような気がしています。

3.三重大学、三重県における研究のめざすもの
  結論から申しますと、三重大学産婦人科のみで研究をやっていても、強い競争力は築け ないと思います。県全体の集団ベース研究(population-based study)で、われわれは全国3 トップになれる可能性があると思っています。なぜならば、三重県は、医学的な疫学研究 に非常に適した県だからです。第一の理由は、その人口規模がわが国の 1.5%であり、サン プリング数として適切です。これまで、私は全国規模のアンケート調査を数件おこなって きましたが、約 1~2%のデータが集まったところで、ほぼ全体の傾向がわかることが多か ったです。したがって、周産期では約 1 万 5000 という三重県の分娩数は、適切なサンプリ ング数といえます。第二に、三重県は、北の工業地帯から、南の過疎地帯まで、多様な社会的背景をもっており、日本の縮図ともいえる県です。旧律令制度で、伊勢、伊賀、志摩、 紀伊と 4 つ持つ県は、兵庫県の 5 つに次いで 2 位であることも、それを物語ります。多様 な特性を持った地域医療が展開されており、わが国に対する提言が行い易いと思います。 第三の理由は、三重県の公的病院と私的な医療施設における、ほとんどの医師が三重大学 産婦人科教室の出身か、三重大学と関連の深い先生がほとんどだからです。以前、私は研 究グループの一員として宮崎県での集団ベース研究を立ち上げましたが、宮崎県の際、産 婦人科医療は、九州大学、熊本大学、鹿児島大学の先生方の派閥があり、この種の研究を 遂行するにはとても難しかったです。この点でも、三重県は県全体での集団データ研究を 行うのに適していると思います。

4.産科医療補償制度、見直しのための脳性麻痺児発生に関する医学的調査
  産科医療補償制度は、重症脳性麻痺児とその家族の経済的負担の軽減、原因分析と再発 防止、紛争の防止・早期解決を 3 つの柱に、2009 年(平成 21 年)1 月に創設されました。 当初、沖縄県と姫路市における調査によって、補償対象は年間 500~800 例と推定され、補 償金額 3000 万円と、産婦人科施設が払う保険料が分娩 1 件、3 万円と定められました。し かし、実際の申請は年間二百数十例であり、制度設定の良否が問題となりました。発足 5 年後の見直しのため、再度脳性麻痺児の発生状況を調査することになり、沖縄県、栃木県 とともに三重県が指名されました。これは、赴任以来考えていた三重県での集団ベース研 究のインフラを作る上でまたとない機会であり、教室の神元有紀君を事務局として行いま した。これには、三重県立草の実リハビリテーションセンター所長の二井英二先生をはじ め、三重県周産期症例検討会、そして三重県産婦人科医会の先生方に大変お世話になりま した。
   結果は、現行の補償制度の認定可能症例は、年間、三重県で 5.2 例、全国で 496 例出生すると推定されました。また、分娩時のイベントで発症した例は、三重県で 2.8 例、全国で 267 例というものでした。さらに、産科医療補償性度が発足した、平成 21 年には三重県か ら 2 例申請されていますが、少なくとも他に 2 例は申請できることがわかりました。した がって、実施の申請が二百数十件という以外に、少なくともその倍は申請漏れがあるので は、という結論です。このことを受けて、本部は、身障者療養施設をはじめ全国的な登録 促進運動を始めています。
   脳性麻痺は全国で年間、約 2000 人発症すると推定されますが、分娩時のイベントが約4 250 例であり、全脳性麻痺の 12%を占めるに過ぎません。(図2)この数値は、海外の 7% ~20%であるというデータとも一致します。脳性麻痺のほとんどが、産婦人科医の責任で あるという、社会的通念は間違っており、変えなければなりません。
  本調査を受け持って、三重県全体のデータによって、わが国の医療を変えることが可能 であることを実感しました。

図2

5.先天性サイトメガロウイルス症のスクリーニング法に関する研究
  サイトメガロウイルス(CMV)は胎児が感染すると、その約 10%に重度障害、残りの 90%にも遅発性の難聴が起こる恐れがあるといわれています。宮崎県でわれわれの行った 脳障害児の調査では、全体の約 4%が、先天性CMV症でした。胎児感染は、約 0.3%です ので、三重県では約 45 人の先天性CMV児が生まれ、4~5 人が重度障害で出生し、40 人 程度が生後のフォローアップが必要であると推定されます。三重県は小児科を中心に、伝 統的にワクチン研究が有名であり、また熱心な耳鼻科医もおられます。したがって、まず 集団ベース研究を普及するには、この先天性CMV症のスクリーニング法に関する研究が 適していると思っておりました。幸い、大学院研究テーマとして鳥谷部邦明君が取り組ん でくれることになり、森川会長に医会事業としても認めていただきました。進捗状況を毎 月の三重県産婦人科医会定例理事会で発表しています。最も有用で効率の良いスクリーニ5 ング法を見出すために、三重県のデータが将来使われるようになるものと期待しています。 継時的にご報告いたしますので、先生方の、ご協力をお願いいたします。(鳥谷部先生報告 を参照してください。)

6.テレビカンファレンス
  その他にも、三重県婦人科癌登録事業、三重県周産期症例検討会、双胎に関する研究な どが進行しております。また、これまで三重大学伝統の糖尿病と妊娠に関する研究は持続 しなければなりません。
   これらの集団ベース研究を成功させるために必要なことは、発表代表者を一つの施設が 独占しないことだと思います。これまで多くの研究が半ばにして頓挫したのが、この発表者の問題です。この度、日本産科婦人科学会の専攻医指導施設指定基準として、発表論文 数が規定されるようになりました。これは、所属施設としての発表ということで、どうし ても症例報告や数例の小規模研究になりがちです。集団ベース研究は、自施設データも含 まれているわけですし、より価値のある研究と日産婦学会も認めていく方針ですので、各 研修施設の先生方は、論文数の確保のため、三重県全体で取り組んで頂きたいとお願いし ます。
  集団ベース研究のみでなく様々なことで、各施設の団結、協力が最も大切です。平成 25 年から三重大学、三重中央医療センター、市立四日市病院、三重県立総合医療センターお よび伊勢赤十字病院の 5 つの周産期センターをもつ病院の間で、テレビカンファレンスを 行っております。毎週木曜日午前 8 時から約 30 分間、2 施設から症例発表をしていただき、 より良い診療を目指すカンファレンスです。予算の都合で、毎回 4 施設しか参加できない 現状ですが、お互いの声と顔が毎週見ることができる効果は絶大だと感じております。

   以上、三重県における研究について私の考えを述べさせていただきました。臨床-研究 サイクルを回せる医学研究者が一人でも多く育つために、医会の先生方のこれまで通りのご支援をお願いいたします。

2014/02/26

ゴルフというスポーツも「負けないこと」が大事

  先日、久富章嗣氏の「月いちゴルファーが、あっという間に、80台で上がれる法」という本を読みました。常に80台で上がるようになるには、「無謀なチャレンジャー」から脱却することが大事という本です。常に、2オン、2パットのパーゴルフを狙わずに、3オン、2パット、ないしは、2オン、3パットのボギーゴルフを目指せば、トリプルやダブルパーなどは無くなり、パーも転がり込んでくるから、80台で上がれるようになるとの内容です。
 これも、「勝つこと」よりも、「負けないこと」を優先することの大事さを言ったものだと思います。

「勝つこと」と、「負けないこと」

  「勝つこと」と「負けないこと」とは、一見似ていますが、物事に向き合う姿勢や態度は大きく違います。
   私の専門とする医療は、周産期医療といって、妊婦、胎児、乳幼児を対象に、妊娠、分娩、分娩後の母親と子供を安全に管理していく医療です。他の医療との大きな違いは、死産や母体危機などの異常がでてくる危険性をはらみながら、比較的健康で正常な経過をとる方を患者さんとしていることです。したがって、異常が起こる可能性を予見し、起こった異常を早期に発見、そして、より良い方向に母児を導くことが主眼となり、また一旦起こった異常に時間をおかずに対処する訓練が必要となります。私は、この周産期医療を30年間行っています。この経験から、抽象的な言い方ですが、新たな治療策に打って出るなどの「勝つこと」よりも、現状を耐えて「負けないこと」の方が、上手く行くことが多いように感じています。
  特に、20年以上新生児集中治療室(NICU)に勤めてきましたが、「この小さな赤ちゃんを明日まで生かすには何をしたらいいか?」すなわち「どうしたら負けないですむか」を常に考えてきました。

「双六(すごろく)の上手といひし人に」

  NICUは、1000g未満の超低出生児を代表とする未熟児や病的新生児を育てる施設ですが、この様な子供たちと向かいあったとき、私は、吉田兼好の徒然草、第百十段のこの一節をいつも思い出していました。双六の名人に勝負のコツを聞いたところ、「勝ちたいと思って打ってはいけない。負けないように打つ、すなわち、どんな手がすぐに負けてしまうかを予測し、そのような手は打たず、少しでも負けるのが遅くなるように打つのがよい」と答えたというものです。
  少しのことで悪い状態となってしまう赤ちゃんには、その子の持っている生命力を頼りに、循環、呼吸、栄養が悪くならないように、すなわち「負けないように」管理することが重要だと感じていました。そして、このことを、NICUの回診やことあるごとに、研修医や学生に言ってきました。

「9着を取らないこと」

  これは、世界選手権個人スプリント10連覇という、世界的な偉業を成し遂げた中野浩一選手の講演を聞いたときに胸に響いた言葉です。
  彼の競輪人生の中で最も誇れることは、世界選手権10連覇よりも、競輪1236走中、最下位の9着は、わずか4回しかないことであるとのことです。不利な状況でも、今持っているできる限りの努力をすることの尊さを言っていることで、「勝つこと」よりも「負けないこと」が大事であると同じだと思います。

大学生活も「負けないこと」が大事

  三重大学医学部への新入生の皆さんは、激しい受験戦争を「勝ち残って」、または「勝ち取って」きた方たちでしょう。医学部は人気学部ですので、応募者も多く、センター試験で1点でも多く得点し、面接や小論文でも人よりも良い加点を得ることが重要です。推薦入学でも、高校で推薦してもらうためには、他の同級生よりも成績などが優秀でなければなりません。しかし、一旦大学に入学し、大学生活の場では、この「勝つこと」への態度はかえって邪魔になることの方が多いように思います。
  医師や看護師として働くとき、一人で働くことはまずありません。同じ施設の医師、看護師、薬剤師、検査技師をはじめ、事務職員、補助職員、関連業者など、ほんとうに多くの方々にお世話になります。この医療職としてのトレーニングを三重大学で行うわけですから、他職種と働くトレーニングもしなければなりません。この時の姿勢としては、「負けないこと」を意識した学習が重要となってきます。

2013/03/18

三重大学産科婦人科学教室からの東紀州地区への派遣について

  東紀州地区は、三重県の南部で尾鷲市と熊野市を中心とした地域であり、人口は約8万と過疎です。平成21年の出生数は465例であり、御浜町にある紀南病院、熊野市にある大石産婦人科、および尾鷲総合病院で行われております。その他、隣の新宮市にある新宮市立医療センターと新宮市の2つの開業医も、三重県東紀州地域の周産期医療に協力していただいております。また、出産以外の産婦人科医療は、紀南病院の産婦人科を中心として行われています。三重大学産科婦人科学教室は、1977年(昭和52年)から、尾鷲総合病院に産婦人科医(藤田弘史医師)を派遣したのをきっかけに、現在まで延べ76名をこの東紀州地区に派遣してきました。

1.東紀州出向は「両刃の剣」
  尾鷲総合病院には1977年(昭和52年)から2005年(平成17年)まで28年間に延べ25名、紀南病院には1981年(昭和56年)から現在まで31年間に延べ36名、新宮市立医療センターには1984年(平成59年)から1997年(平成9年)まで13年間に延べ15名を派遣いたしました。
  ここで注目したいことは、医師が赴任した時期の卒後年数です。ほぼ全員、卒後5年目から10年目に出向しています。他の科もそうですが、この時期は、大体の診療をこなす力がつきます。帝王切開術や単純子宮全摘術も術者として、ほぼ問題なくこなせます。したがって、外来→手術→外来、または、外来→分娩→外来という診療を主治医として担当し、概ね安全に行うことができるようになるのです。さらに、この3病院においては、産婦人科部長として、助産師、看護師をはじめ診療スタッフとの協力体制や、院長はじめ診療施設の管理者とうまく協調していくことが求められ、これらは医師として極めて重要なトレーニングとなります。一方、卒後5年目から10年目は、リスクが高い手術や妊娠・分娩管理でも、「できるだろう」とおこなってしまう傾向にあることも事実です。そのほとんどが、うまくいくものですから、どんどんエスカレートしていき、その内、失敗を経験します。そして、以後、慎重に対応し、先輩や専門家に相談するなど、「念には念を入れる」診療となります。その結果、失敗も経験しながら「引き出しの多い医師」となり、成熟していくのが一般的だと思います。したがって、卒後5-10年目は、産婦人科医としての成長過程の中でも極めて大切な時期であります。
  一方この時期に、患者さんの診療結果が思わしくない場合や、医療訴訟に巻き込まれたりすると、産婦人科診療がいやになって、退職、辞職などを考える傾向にあります。2000年以降に、三重大学産婦人科医局から28人が退局(開業退局は含みません)、辞職されていますが、勤務先が東紀州3病院であった例は7例(25%)でした。すべてでは無いでしょうが、診療上の何らかのトラブル・トラウマが原因であった可能性はあると思います。トップとして、任される東紀州の出向は、医師生命にとっても、医局の人事にとっても、いわゆる「両刃の剣」なのです。

2.新入医局員のリクルートにはマイナス
三重大学のように地域に密着した大学は、東紀州地区のような過疎地に関連病院を有しており、地方自治体から医師派遣を要請されることが常です。隣の岐阜県は、飛騨高山地方、京都府は丹波・丹後地方などがそうで、岐阜大学、京都府立大学の産婦人科医局も同様な問題を抱えています。私がいました宮崎大学では、県の多くの地域が僻地地区であり、県や市町村の要請に答えて、医局員を派遣していました。ただ、僻地病院での勤務はやはり医師、特に若い医師には人気がなく、誰を派遣するかが常に問題でした。家庭を持った女性医師は、概ねこの派遣から免れ得るため、男性医師と独身女性医師が、いわゆる「徴兵的」に派遣されるという傾向にありました。三重大学産科婦人科教室でも、実情は同様なものだと感じ取れます。そして、これが新入医局員のリクルートには、ネガティブ要因であり、大学医局への入局を避け、いわゆる「人事命令を受けない聖域」病院において、研修や就職を希望する若者が増えてきています。すなわち、「医局離れ」です。新入医局員リクルートにとっては、「危難病院」なのです。

3.医局会議を経て
  この「紀南病院問題」を解決するために、昨年秋の医局会で大学医局員に意見を聞いてみました。その結果、①三重大学からの出向は止め、他大学などに依頼する、②出向を順番に義務化する、③東京など都会の医師で、「のんびり」と診療したい方をリクルートする、など様々な意見がでました。私個人としては、平成17年に、尾鷲総合病院と紀南病院の統合として、三重大学主導で紀南病院に3人の医師を集めたという経緯もあり、三重大学が引き続き責任を持って医師を派遣し続けることが責務ではないかと思っております。ただ、派遣方法が従来の、卒後5-10年の比較的若い医師の、いわゆる「度胸試し」ではなく、より魅力的な、若者にも行きたいと思えるような紀南病院産婦人科を目指すべきだと考えます。
  それでは、どのように魅力的な僻地病院を作っていったらいいのでしょうか?第一に、部長は、産婦人科の裏も表も知り尽くしたような経験豊かな医師が望ましいと思います。それが、東紀州出身の方であれば最高です。私の出身は、兵庫県の日本海側の豊岡市という典型的な僻地ですが、古くからの知人が多い生まれ育った地域で、故郷の医療に貢献することも、自分の人生の選択肢であると思っています。第二に必要なのは、僻地病院の空間的疎外感を無くすことであります。それには、医師間の交流などを盛んにする、具体的には、大学などから医師が頻繁に当直、外来および手術応援などに出かけるなどです。もちろん現在でも医局員は、このことに努力してくれていますが、さらなる医師の移動が必要でしょう。さらに、紀南病院の勤務医を3人にして、研修日を多く取ることができるようにしたいと思います。定期的に大学、関連病院、学会などに研修に行くことができるようになれば、空間的疎外感が軽減するのではないでしょうか?第三に、紀南でしか学べないことがあるのではないでしょうか?例えば、地域に密着した検診医療も東紀州ならではと思います。成人白血病ウイルス(HTLV)の感染頻度が高いことが予想されますし、風土病など多くのテーマがあると思います。また、他の病院とは違った、内科や外科との協同診療ができるのではないでしょうか?私も、大阪の田舎である貝塚市立病院勤務の時には、鼠径ヘルニア、虫垂切除術、および腸吻合術などを、外科医の指導のもとに行わせていただきました。

4.千田時弘先生のこと
  千田時弘先生は、三重県菰野町の出身で、平成19年に自治医科大学を卒業され、一昨年、わが同門会に入会していただきました。自治医科大学は、卒後9年間の僻地勤務が義務づけられています。千田先生は、三重県に帰ってこられてからも、産婦人科になることを希望され、平成23年4月から三重県立総合医療センターで勤務され活躍されています。この先生に、県から平成25年4月より紀南病院内科専任の勤務命令が来たのです。2年間の産婦人科医としてのトレーニングが中断してしまい、産婦人科専門医取得も3年遅れることを心配され、昨年秋に相談に来られました。以後、同門会や三重県産婦人科医会の先生方に協力していただき、県にお願いを続けました。三重県健康福祉部と三重県地域医療研修センター長の奥野正孝先生始め自治医大OBの先生方のご理解を得、正式に紀南病院産婦人科専任医としての赴任が決定いたしました。三重県で働く産婦人科医が少ないことが大きな要因であったと思いますが、このような寛大な決定をしていただいた県と自治医大関係者に感謝申し上げるとともに、今後親密なる協力体制をとって行政協力を行って行きたいと思います。また、東紀州の産婦人科医療に携わられる千田先生には、ぜひ、前述したような、魅力的な紀南病院産婦人科を作っていっていただきたいとお願いします。